コース学習者の私たちが修得(マスター)していくべきもの
赦しは何もしない
コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)とは何か?
というなら、コースは一元論(非二元/ノンデュアリティ)の霊性の道だと言うことができます。
コースは、二元性のこの世界を超えていくための霊性の道であるわけです。
そのための実践的な方法として、コースでは「赦し」という実践をしていきます。
ただ、コースでは「赦し」という実践をしていくわけですが、そこで私たちが知っておかなければならないのは、赦しは、やり方、技巧、テクニックというものではないのだということです。
というのも、私たちは手っ取り早く「赦し」を修得しようとします。
いわゆる、赦しの「やり方」というテクニック的なほうについフォーカスしてしまうということです。
コースの学びが浅い段階においては、誰もがその赦しの「やり方」というものに興味を抱きますし、その実践においても「赦しはこうやればいい、ああやればいい」というテクニックとして「赦し」を捉えてしまうことになりがちです。
でも、コースが教えていることの理解が深まっていくなるならば、コースの実践は小手先のテクニックでどうのこうのするようなものではないということが分かってきます。
つまり、「赦しは、ただじっとして何もしない」というその意味が分かってくるわけです。
ときに、コース学習者が「私は○○を赦した」というような言い方をしますが、赦しを真に理解するようなるならば、そのような言い方はしないといえましょう。
つまり、赦しはそのようなものではないということです。
赦すときには、すべてを赦しています。すべてを受け入れています。
赦しは、そういうものです。
それは「赦し」をするというよりも、赦しの視点(まなざし)を思い出して、そこから聖霊と共に見る(直視する)ことが、その実践となっていくということです。
なぜ赦しは何もしないのか?
「この世界には、なされなくてはならないことなど何もないのです」
と、ワプニック博士は云います。
それはどういうことか?
というなら、つまりは、イエスや聖霊は、この世界をまさにそのように見ているということです。
それが虚偽(無)であると分かっているなら、何をする必要があるというのでしょう。
そう、私たちはそのように見ることができるように、コースの学びと実践をしていっているのであり、そのような見方、在り方を修得していっているのだということです。
ようするに、
私たちは何のためにコースを学ぶのか?
というのなら、
「赦しは何もしない」ということを体現(修得)するためにコースを学んでいると言っても過言ではないといえます。
それは、「ただ在る」「静かに見ている」だけです。
ただし、実際のところ、私たちは何もしないでいることなどできません。
私たちは「ただ在る」「静かに見ている」どころか、いつも常にジャッジ(価値判断/裁き)をしています。
この世界に差異(序列)を見ては、ジャッジ(価値判断/裁き)をやめることができません。
そして、それによって動揺(反応)しないでいることがありません。
心休まることがありません。
自分の内側を直視していくならば、それは明らかです。
例えば、ノンデュアリティのスピリチュアリティで、「ただ在りなさい」とか「いまここにくつろぎなさい」とか「リラックスしなさい」というようなことが云われていますが、正直、それがとても難しいことを理解するはずです。
ここで、コースの学習者である私たちが知っておかなければならないのは、コースの実践はそういうものではないということです。
コースの実践では、むしろ、平安になろうとはしない、静寂になろうとしない自我(の力動)ほうにフォーカスしていくということです。
言い換えるなら、動揺しないようにするのではなく、動揺したがっている無意識の部分を明るみにしていくということです。
その訓練は動揺を取り除くために赦しをするのではありません。
(結果的にはそうなりますが、それが目的ではないということです。)
動揺しておいて平安になろうとするならば、むしろ、葛藤を生むだけです。
そういう実践を、コースでは、「破壊するための赦し」と呼んでいます。
赦しの実践(訓練)をしていく目的は、個人の自分を超えたところの一切脅かされることのない真の自己を思い出すことなのだということを覚えておくと良いでしょう。
コースの学びが浅い段階というものは、個人的な(自我の)平安を得るために「赦し」を実践していたりします。
結果的にいくら平安がもたらされたとしても、それが「赦し」なのではないということです。
そのような目的で赦しをしているとしたなら、それはもはやコースの教えとはまったくかけ離れたものになっていることに気づくべきです。
何のために「赦し」を実践していくのか?
その目的を見誤らないためにも、コースの形而上学をしっかり学んで、その思考体系をしっかり修得していく必要があります。
私たちは個人の自分を超えていくのであって、つまり、個人性、個別性、特別性を超えていこうとしているのだということを忘れてはなりません。
ちなみに、個人の(肉体である)自分はこの世界から影響を受け続けます。
でも、個人の自分など、本当は実在などしていないのです。
影響を受け続けているその自分は本当の自分(真の自己)ではないのです。
イエス、聖霊は、そのことを知っています。
個人の自分は夢の登場人物でしかないことを知っています。
ですから、イエス、聖霊は、個人の自分にガイダンスしたり、語りかけたりはしないということも知っておきましょう。
(イエス、聖霊が語りかけている相手は「心」のあなたです。)
なぜ赦しは何もしないのか?
というなら、そのすべてが非実在であるからです。
無であるものに対して何かをするとしたなら、それこそが狂気の沙汰です。
イエス、聖霊はそのすべてが全一に非実在であるという真実を知っているからこそ、何もしないでただ見ているだけなのです。
そう、私たちはそのイエス(聖霊)と共に見ることをしていくことで、イエス、聖霊の知覚の仕方、在り方を修得していくのだということです。
それが、「イエスと共に見る」「聖霊と共に見る」ということの意味であり、そしてそれが、赦しの実践で私たちがしていかなければならないことなのだということです。
聖霊の視点(ヴィジョン)を修得していくこと
ときにコース学習者は、特に学びが浅い段階において、イエスや聖霊について勘違いしてコースを学んでいたり実践をしていたりします。
というのも、イエスや聖霊がまるで魔法使いのように私たちを目覚めさせてくれるものだと思っていたりするわけですが、イエスも聖霊もそのような存在ではないことを知っておくべきです。
そして、コースはそのような霊性の道ではないということも知っておくべきです。
コースは、学びと訓練によって、正しいものの見方、考え方、そして正しい知覚を修得していく道であるということです。
そのことについてワプニック博士はこう云っています。
「イエスや聖霊は、魔法使いでも、サンタクロースでもありません」と。
もう一度申しますが、コースは学びと実践、訓練を通して、真の知覚を修得していくための道であるということです。
真の知覚とは、まさに赦しの視点から見ている知覚のことであり、それをコースでは「心眼(ヴィジョン)」と呼んでいます。
つまり、イエスや聖霊が知覚しているように、私たちがそのように見れるようになるために訓練していくことが求められているわけです。
イエス、聖霊が何かをしてくれるわけではありません。
イエス、聖霊はただ見ているだけで、何もしません。
ただ赦しのまなざしで見ているだけです。
そう、イエス、聖霊は、私たちが彼らを教師として選び、彼らと共に見ることを待っているだけです。
イエス、聖霊は常にそうであり、けっして魔法使いのように祈っていれば天国(実相)へと引き上げてくれるわけではないということです。
私たちはコースの学びと実践を通して訓練しなければならないこと、修得していかなければならないことがあるということです。
それは、イエス、聖霊が見ているように見れるようになるということです。
それを完全に習得(マスター)することを「贖罪」と呼んでいます。
いわゆる、聖霊の視点(ヴィジョン)の完全なる修得です。
私たちがコースの学びと実践をしているのは、それが目的なのだということを忘れないようにしましょう。
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