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兄弟なしでは目覚めることなどけっしてあり得ない


兄弟のしなかったことを赦す

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)では兄弟を赦すことについて、「兄弟のしなかったことを赦す」という言い方をします。

それは、いったいどういう意味なのでしょう?

コースの学びが浅い初期段階のうちは、その意味がなかなか理解できないものです。

それは、日々の実践を通して体験的にようやく理解されてくるものだと言うことができましょう。

実践してみれば分かることですが、そう簡単に赦せるものではありません。

「赦し」はテクニックやメソッドではないからです。

「赦し」を実践していくためには、そこにはしっかりとした形而上学(正しい思考体系の理解)が必要不可欠なのだということです。

「赦し」が実践できるようになるためには、コースの学びと実践を通して時間とプロセスを要するということをわきまえておくと良いでしょう。

ようするに、このコースは地道な学びと訓練を要するということです。


私たちは何を赦すのでしょう?

兄弟を赦すとはいったいどういうものなのでしょう?

たとえば、兄弟の言動、行動によって傷ついた(ムカついた/イラついた)とき、コースを少しでもかじったことのあるコース学習者は、

「この世界は幻想だから、他者もいないのだから、すべてが実在していないのだから、だからその兄弟(他者)を赦す」

というふうに赦しの実践をしていくわけです。

ただし、コースの学びが深まっていくならば、そのような「赦し」の捉え方ではなくなっていきます。

では、何を赦すのか?というなら、

厳密に言えば、例えば他の誰かによって自分が傷ついた(イラついた)として、その原因は、自分が傷ついた(イラついた)のは自分で傷つく(イラついた)ことを選んだからであって、それを赦す(訂正する)のだということです。

つまり、自分で「自分が傷つくことを選んだ」のであるということ、そして訂正するのはその「選んだ」ことなわけです。

それは、この世界が、兄弟が、自分を動揺させたのではないことを意味します。

それが、ワークブックのレッスン5、そして、レッスン31で述べてあることの意味です。

私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない。(W-pI.5)

私は自分が見ている世界の被害者ではない。(W-p1.31)

奇跡講座/中央アート出版社

自分が動揺しているのは、自分の平安を奪う力(動揺させる力)を自分から自分以外の外側に与えたからなのだということです。

自分で「自分が傷つくこと」を選択したこと、そのことが問題なわけです。

もっといえば、それは問題なのではなく、単なる誤りであるということです。

そして、その誤りが訂正されるとき、「兄弟のしなかったことを赦す」ということになるということです。

それが、「赦し」であり、そのときにもたらされるのが、平安(神の平安の反映)です。

その「赦し」が訓練によって根付いていくことによって、知覚(解釈)が変容していくのを実感するようになります。

どんなふうに知覚が変容していくのか?というと、

「そこには兄弟(他者)がいるわけではない、そこには世界は存在しない」

というような知覚になっていくということです。

ここには自分しかいない、自分以外誰もいない、外側には何もないということが体験的に理解/認識されていくことになります。

外側(他者)のせいで動揺しているのではないということが分かってくるならば、「外側には問題などない、外側には誰もいない、世界もない。すべてが投影の映像を見ているにすぎない」ことなわけで、それに対する対応(反応)ももちろん変わってくるということです。

その知覚の変容に伴って、同時に、自分は「心」であるという自覚も起きてきます。

「心」を自覚したところから見るとき、もはや他者はいません。

すべてが自分(の一部)だとして見ています。

すべては自分が見ている夢の中にしかすぎない、自分の心の中ですべてが起きている、ということが自覚されていくことになります。

それと同時に、この世界が、この人生がどうであろうが、あるいは兄弟が何をしようが、それらはただの影(幻想)であって、その影に対して動揺しているだけということが認識されていくわけです。

そのような認識が学びの階梯を上っているということを確信させてくれます。

学びの階梯を上っていくにつれて、いわゆる、見て(知覚して)いる景観が変わっていくのです。

外側に世界はない。

何も無い。

外側に見ているのは、「心」の自分を投影した自分自身の一部であると。

それらの影に「自分の平安を奪う力」を与えていることがそもそもの問題なのだと理解されていくわけです。

自らがあえて動揺しようとしているだけということが認識されるならば、もはやその動揺は誰か何かのせいではなくなりますし、もはや深刻ではなくなります。

それは、自分はこの世界の被害者ではないことを思い出させてくれます。

それが、コースの「赦し」の実践を通して分かってくることです。

それは、頭での知的理解を超えた、体験的な理解として分かってくるということです。


自と他の共通の利害

その先には、さらにどんな景観が見えてくるのでしょうか?

コースでは、以下のように述べられています。

進んでいくにつれ、この道はかなり違ったものとなっていく。また、旅を続けるにつれて目前に現れてくる壮大さや、雄大な景観や、広々と開けていく眺望のすべてについて、あらかじめ知ることはできない。だが、それらの壮麗さは先に進むにつれて言葉に尽くせぬ高みにまで達するとはいえ、そうしたものでさえ、この道程が消滅してそれと共に時間が終わるときに待っているすべてに比べれば、その足元にも及ばない。 (M-19.2:5-7)

奇跡講座/中央アート出版社

赦しは、「兄弟のしなかったことを赦す」という範囲に留まるものではないということです。

赦しは、もっと広義なものへと延長され、普遍化されていくことになります。

兄弟は、もはや、人だけに留まることはなく、自分の目に映るすべてが自分の一部(兄弟)というふうな知覚になっていくということです。

具体的に言えば、椅子も、カーテンも、砂粒も、植物も、人の身体も、(もちろん自分の身体も)すべてを同じ自分の一部というふうな見方(知覚)になっていきます。

それによって、「兄弟と共に、兄弟と一緒に、兄弟を連れて帰る」という言葉の意味がもっと深いレベルで理解されるようになっていきます。

そうなっていくとき、兄弟なしでは目覚めることなどあり得ないことも分かってきます。

そうなっていくとき、私たちは「神の教師」として自と他の共通の利害を生きはじめることになるということを知っておきましょう。


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