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逃亡者となってしまっている私たち

この逃亡者のストーリーは、この世界に居る私たちに共通する神話だといえましょう。


逃亡劇のストーリー

自分が神を殺害した張本人であるにもかかわらず、
つまり、殺害者であるにもかかわらず、
その罪から逃れるために、
私たちは、さまざまな工作をすることになったのです。

その工作とは、
自分こそが被害者となり替わって、
自分以外のものに罪を擦(なす)りつけるというものです。

さらには、
自分は卑小な者として変装して、
自分は、けっしてそんなことなどできるような者ではない、
としているのです。

無力で、脆弱で、惨めな、可哀そうな被害者になりきって、
自分以外のだれかを罪人に仕立て上げて、
そうすれば自分は処罰されることから免れられると信じているのです。

私たちは、この世界を使って、そういうことをしています。

自分は神を殺害した罰から逃れるために、
もはや偽りの自分になりきるほかありません。

それが、「人間」という姿を装うということです。

自分はけっしてゆるされない罪を犯したがゆえに、
見つからないように、偽りの自分を装って逃亡し続けるしかありません。

いつも罪悪感にさいなまれていながらも、
そのことはひた隠して、孤独で、おびえながら生きるしかありません。

逃亡し続けるしかないのです。

逃亡者にとっては、
どこに行っても、
どこに逃げても、
いつも罪悪感に付きまとわれていることから逃れることはありません。

答えなどどこにもありません。

逃亡者は、
ただ逃げ続けることだけが、その生きる意味となるほかありません。

罪悪感にさいなまれながら、
いつ、見つかってしまうのか?
いつ、つかまってしまうのか?
そのことにおびえながら、
帰るところすらもなく、
一時的な仮の安息だけを求めて、
終わりなき流浪の旅をしながら逃亡し続けるほかないのです。

時間と空間の中で無意味な逃亡の旅をし続けること、
それが逃亡者の目的となってしまっています。

その逃亡者とは、まさに、私たちのことです。

でも、
本当はその全部が嘘のストーリーなのだと、
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)のイエスは教えてくれています。

神を殺してしまった、と信じたことも、そして、この逃亡劇も、、、

その全部が嘘なのだと、コースは教えてくれています。

それは罪ではなく、ただの誤りにしかすぎないのだと。

もうこれ以上、
自分をニセモノの自分で偽って逃亡の旅をする必要などないのです。

その真実を思い出すことが、
逃亡者にとって、
私たちにとって、
唯一の救いなのであり、唯一の答えだということです。


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