地震の悲しい摂理

最近の地震でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りしますと共に被害を受けられている方々の環境が少しでも早く復旧されることを念願しています。

地震は突然やってくる。そうすると樹が倒れる、家が壊れる。土砂崩れが起こる。しかしその地震はこの樹を倒してやろうと思って地震を起こしているのではない。この家を壊してやろうといって地震を起こすのではなくて、地震はただただ地震を起こす。壊れたものは壊れるので壊れたのだ。そこに何ら自分(地震)の意志は入っていない。地震に殺人の意志はない、倒れた樹木に地震を恨む心情はない。

ここにコップがある。これをこう上げれば、こう上がる。こうおろせば、おろされる。ガタンとやればガタンと壊れてしまう。ただそれだけだ。それ以上でも以下でもない。そうすると極めて非人情なことだ。なるほど、そういうところがある。

しかしそれならそれで自分は人情をなくしてしまったかというと、そうではない。人情は木石でない人間、自分も人間だとすれば、それはあるのです。ところが人情があるところに即してまた非人情の世界、人情で動かない世界がある。人間には諦める訓練が必要だ。割り切る訓練が必要だ。だけどそのような訓練が必要と考えること自体、諦めたり割り切ったりできない人間の特徴を示しているとも言えるようだ。

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