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甲と乙

自分の愚かさを自覚しつつも今日はどうしても不愉快になり自分自身の感情を整理できない。確かに不愉快になった原因はあるけれども他人が自分に与えた失礼さ不愉快さを寛容な気持ちで受け入れることができないなんて恥じ入るばかりだ。これは不愉快な事象を与えた他人より自分が一番大切だという自分の愚かな自己本位の気持ちのせいだと思う。相手のことを思う気持ちが足りないからだろう。自分自身の心を整理する意味で以下を書いてみたい。

よく私たちは「甲乙つけがたい」という。よくよく考えてみると「甲」という言葉は「乙」という言葉がなければ「甲」という言葉は存在できない。「甲」は「乙」という言葉があるから成立する言葉だ。同様に「乙」は「甲」があるからこそ、その言語は存在する。つまりすべての文字はそれ自体では存在できない。これを仏教では「空」というのだろう。

同様に「幸福」も「不幸」という言葉があって始めて存在する。なぜなら自分の環境が常に幸福なら自分はわざわざ幸福と自覚する必要がないんだから。

中国唐時代の臨済宗の僧侶、趙州従諗はある弟子が
「どうしたら幸せになれますか?」
と質問したことに対して
「誰もかれも皆幸せになってくれ。私はいつまでも苦界にいて皆の幸せな姿を見ていたいものだ」と答えたそうだ。
 
私はまだ人間ができていないようだ。

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