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手持ちぶたさな生活をしてみたい

夜に眠れなくてこの文章を書いている。目に悪いと知りつつも暗闇の中で書いている。あえて時刻は書かない。

何に手持ちぶさたになるかと言うと、本にだ。

風邪をひきながらも図書館から借りた本を読み、積読が無くなった。正確には「図書館から借りた本の積ん読」だが。

そんな今は家にわずかにある積読を読もうか、それとも再読をしようか?と悩んでいる。

図書館からの積読が無くなったことで時間に追われる読書は無くなった。以前も、差し迫らなければ本は読まないのか?的なことを書いた記憶があるが、まあ、あながち間違ってはいない。そもそも時間に追われて読んでいる感覚があるということは、自分のキャパシティーを越えていそうだなと感覚として感じていて、それを言葉に出来ていないだけな気もする。

キャパシティーを越えていそうな感覚があるということは、それだけ好奇心旺盛で知識に貪欲なのだな~と思うのだが、それがプラスに働かないこともある。好奇心旺盛な自分の理想の読書スピード・読書理解に現実が追いついていなく、本を読むこと自体に疲れてしまう。

最近、熱心に読んでいた本で『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』がある。この本では仕事の現実と理想のギャップで燃え尽きてしまうと書かれている。これは仕事に限らずとも発生してしまう問題だなと自分の読書やゲームをしていても感じる。

今、図書館から本を読んではまた借りるという資本主義のような無限ループから抜け出したくなっている。

さっきも書いたが、これは自分の読書に対する現実と理想のギャップが広がってきていることであって、一度距離を置きたい。距離を置いても解決にはならないのだが。

解決策としては、自分がそれほど読めないことを自覚しセーブすべきか、貸し出し期限内に全て読み終えるという幻想を手放す、本を買ってしまってとりあえず安堵する。の3択が考えられる。

最も後悔がないのは2つの案だと思っている。1つ目は自分の興味関心を狭める行為であって、色々なことへの目線が向かなくなる可能性がある。2つ目は今まさに悩んでいる問題が永遠とつきまとうが、興味関心が薄れるまでは続く。3つ目は現実的な問題でお金がない。それに図書館で借りて読むことに慣れてしまった身としては「この本、買うほどではなかったな」と後で後悔することが往々にしてある。

結局は現状維持がいいというなんとも味気ない結論。もちろん、お金があるのならば、3つ目の案がベスト。けれども、お金に向かうと本は読めなくなるだろうという別の心配が出てくる。そもそも「そこまで本が大切?」と言われてイエスといえるものもない。わりと宙ぶらりんな所にある。ゲームほど感覚的に無ければ生きていけないという所まできていない。が、こうやってnoteを書くためのインスピレーション的な源泉であることは間違いなく、本を読まないことで考える脳が衰えるような予感はある。

あれこれ書いてきたが、積読が無くなった私はどんな行動をするの?という実験でもある。家の本を読んだり、kindleで古典でも読むか?という考えもある。はたまた、本からは離れてゲーム、YouTube、SNSざんまい?の可能性も大いにある。締め切りに追われる読書から解放されてどこに行くのか、締め切りの読書から逃げることを口実に何かを変えたい自分もいる。

言葉にしないと変えられないのもあるかもしれないが、それはそれで怖い。書くことは宣言をするようなもので、それができなかった時の自分を直視するのが怖い。

既に書いたことはそれほど怖くないというか、妥当な逃げ道を提示することを前提にして書いているから安心して筆を進められるのかもしれない。

おそらくそうなのだろう。逃げ道を用意できないものは安に書けない。自分を守るためのセカンドプランがない。だから書けない。書きたいと思っていてもそれを現実に一度出すのが怖い。

どんどん暗い方向に進んで行っている。それもそのはずで、この文章は暗闇で書いているからだ。

そもそも、暗いと思うこと自体が自分の弱さだと自覚している証拠であり、そこへ向き合いたくないのだと私が言っている。

まあ、でも自分が逃げるレトリックのようなものの一端が見えたような気がする。

と、ここまで書いたところでお腹が鳴り、夜明けを感じる。











P.S.
結局、図書館に本を返しに行った時に誘惑に負けて本を借りた。

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