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書き写して学ぶ

深く理解したい本があって、本の内容を書き写している。まとまったらnoteで投稿したい。

だが、書き写すのがかなりめんどくさい。その本があってこそ理解が深まるのだが、そう感じてしまう。一字一句に気を使うし、腕がかなり疲れる。自分でもよく分かっていないが、同じ文字数を自分の言葉で書くよりも疲れる。そんな理由もあって書き写すのに一苦労している。

だが、他人の文章を書くことで自分の文章との違いが見えてくる。おそらく毎日なにかしら書いているからだろう。毎日文章を書いて投稿していなければ、そんなことに気が向かなかったと思う。特に気になったのは語尾で、私はよく「思う」「考える」「感じた」「気がする」を使うと「思っている」。

この文章自体が考えたことだったり、思ったことだったりするので、わざわざ「考えている」とか「思っている」を使わなくてもいいような気がする。しかし、自分の中で断定出来ないことや、その場の思いつきで「本当にそうか?」と悩んでしまうことが多い。なので、その場合に使っている。

加えて、私は読書感想をよく書くのだが、事実と感想を分ける時の語尾としてもこれらは使う。自分の記憶で書いていることや感想は「思った」とか「解釈した」と書いている。心に響いたことは引用するが、それ以外はある程度「こんなことだろう」とまとめたことを断定して書く。

おそらく、引用は文章自体は間違っていないが、解釈が間違っていることはある。また、自分でまとめたことは自分はそう本に書いていたと思って書いているが、同じ本を読んだことのある人からしたら「コイツとんちんかんな事ばかり書いている」と思われても仕方ないと割り切っている。

「文章の書き方講座」的な本を読むと、「思う」とか「感じた」は使いすぎないほうがいいと書いてある。なるべく断定すべきだと。確かに、誰かの文章を読んでいても、断定している文章の方が読みやすい。それに、その人の心情に添って文章が読めるし、その人に成りきっている感覚がある。

確かに、内面の独り言はいちいち「思う」とかつけてない。その代わりに「だよな〜」だったり「かな〜」を使っている。人に話す時に語尾が「思う」「考える」「感じた」「気がする」に変わる。

私自身、それなりに(自分の内面の)話し言葉で書いているつもりだが、やはりこれらの語尾がつくということは誰かしら第三者を意識していることになる。自分自身のために書いていると思いつつも、深層意識では他者を想像して書いていることになる。要は自分の思っていることと文章に一貫性がない。

自分で書いていても気づいたが、「その人の心情に添って文章が読めるし、その人に成りきっている感覚がある。」というのはとても大切だ。

自分が後で読み返した時に過去の自分を第三者として扱いたいのか、それとも過去の「自分」として扱いたいのかに関わってくる。もちろん、読み返す時は昔に書いた文章という意識はあるが、それを自分によく似た誰かとして捉えるか自分自身の過去として読むかでは意識が違うような気がする。

今はハッキリとしないが、この両者は違うような気がしている。

その人に成りきった感覚で文章を読んでいても時折、「思う」や「考えている」は登場する。それは特に強調したい意見がある時や、著者本人も葛藤している場面で多い。また、心の内面を覗くような書き方として登場することもあると感じる。

どちらも心の声ではあるのだが、より深奥を覗くような場面で登場すると捉えている。そもそも書いている言葉が心の声という考えが間違っているのかもしれないが、私には親密になった人にしか言わないようなことがポロポロとネット上で書かれているような気がしてならない。

では、私はこれからどう書いていくのか?だが、「その人の心情に添って文章が読めるし、その人に成りきっている感覚がある。」はクリティカルに効いている。

色々選択肢はある。自分の内面の話し言葉である「だよな〜」にするのか、はたまた、最近ちょこちょこ使っている「…」という終わり方にするのか、断定を使うのか、変えないのか。これらを複合してもいいと思っている。

複合しつつ、極力断定していくというのが丸い選択肢だと認識している。しかし、「思う」「考えている」「感じる」は他人に受け付けられにくいものの自分の葛藤する内面を良く表している。

答えはその場そのばで変わる。まあ、丸い選択肢になるのかな〜?

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