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自分次第の法則1「思い出す歴史」

こんにちは、くらです。

自分の人生をどうとらえるかは、全て自分次第。嬉しい、悲しい、楽しい、苦しい、それは自分が感じ取ること。自分以外の人には分からないことです。
なので、どうせなら、嬉しい、楽しい、と捉えるほうが、生きていくエネルギーになる。
そんなエネルギーになるお話を取り上げていきたいと思います。


小林秀雄という文芸評論家をご存知の方は多いと思います。

明治三十五年(1902)に東京で生まれ、昭和三年(1928)に東京帝国大学文学部仏蘭西文学科を卒業、文芸評論家として世に出ました。

高校時代、浪人時代、と、彼の作品に挑戦しましたが、難解な文章に挫折した思い出があります。

「無常と言う事」という著作に、「一言芳談抄(ほうだんしょう)」についての話があります。

歴史は思い出

「六百五十年ほど前の文章が『分の節々が、まるで古びた絵の細勁(さいけい)な描線を辿る様に心に滲みわたった』と小林はその全身を震わせられた感動を綴っています。そして、『文の節々』が名工によって彫られた鑿(のみ)の迹(あと)のように感じられる、また音楽の調べが感じられるとも表現したくなる、小林の文が続きます。

『僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする』(『無常という事』)

歴史を学び知るとは、『生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間』を思い出すことなのです。僕ら人間に、ひとしく天から授けられた”思い出す”という智慧が『生死無常』の苦しさから僕らを救うのです。歴史という学問はあらゆる学の基本なのです。

歴史とは何か、という小林の問いは、十二余年をかけて昭和五十二年に完成した大著『本居宣長』と、それから四年半を費やした『本居宣長補記』に尽くされています。翌昭和五十八年に小林は八十歳で世を去りました。

(偉人をしのぶ言葉)
『建武中興なら建武中興、明治維新なら明治維新というような歴史の急所に、はっきり重点を定めて、其処(そこ)出来るだけ精(くわ)しく、日本の伝統の機微、日本人の生活の機微に渉って教える、思い切ってそういう事をやるがよい。

学生の心というものは、人生の機微に対しては、先生方の考えているより、遥かに鋭敏なものである。人生の機微に触れて感動しようと待ち構えている学生の若々しい心を出来るだけ尊重しようと努める事だ。そうすれば、学生の方でも、暗記しようにも暗記が不可能になります』(小林秀雄著『歴史と文学』)」

(『日本の偉人(上)』寺子屋モデル(到知出版社)より引用 P75ー76)


歴史は苦手でした。暗記が嫌い。何のために、と思ってしまう。
小林秀雄の言うことを勝手に解釈すると、自分の現状を照らし合わせて、人生の様々な感じてみる、ということかもしれません。

歴史を通して、自分自身の満ち足りた時間を思い起こす。反対に、苦労や失敗なども思い起こす。出来事、というよりも、自分の経験に当てはめると、歴史上の人物が自分と重なったり、全く違ったりする。

私は、夏目漱石の「虞美人草」の冒頭を読むと、いつも亡き父の故郷、愛知県の山奥の風景を思い出す。小節では、叡山を登る場面となっているが、その時代の、風景が、自分の幼少期に遊んだ父の故郷を思い出させる。文章の景観とは全く違うが、不思議だ。そして、頭にずっと残るのだ。

自分の至福の時となるが、それは、そのときをどうとらえるか自分次第なのだ。古い思い出は、いいものばかりではないかもしれないが、楽しいものとして捉えていくかどうかは自分次第である。

今回もお読みいただきありがとうございました。


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