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ただ漠然と「何者」かになることに憧れていたあの日の君へ

中途採用で入社した今の会社に勤めて4年目の春、
君は前年度の業績を讃えられ最優秀社員として表彰される。

君は「ただ真面目に仕事に取り組み、たまたま上層部の目に留まりやすい業務に周りよりほんの少し励んでいただけ」「私が何か特別な技術や能力、ひとより優れたものを持っているというわけではない」などと言う。
謙遜などではなく、心の底からそう思っているといったふうに。

だけど、君の日記にはこう書かれている。

それでも、目に見える形で受けた称賛は、
やっぱりどこか特別な気がして、
すごく、嬉しかった。ちょっぴり誇りに思った。

そして、こう続く。

同時に、私にしてみたら喜ばしい功績も、
こうして言葉にしなければ、社外の誰にも伝わらないのだと思うと、
自分が生きている世界はとても狭くて、
あまりにちっぽけだということに気付いてしまう。

「何者」かになりたい君の姿が目に浮かぶ。


何者でもない自分を抜け出して
私も誰かにとっての特別になりたいのか、
それとも憧れの彼らにただ近付きたいだけなのか。
今はまだその答えはわからない。

もちろん想像に及ばないほどの苦労だってあるだろう。
私が思うよりキラキラした世界ではないのかもしれない。
それでも紛れもなく特別な彼らが眩しくて、羨ましい。


じゃあ言うよ。

これは未来の君の持論だけどね、
君の言う「彼ら」は、きっと誰一人として「何者」かになることを目指してそれが叶ったという人はいないと思う。

「何者」かになりたいなんて思っているうちは
「何者」にもなれない。

もっと厳密に言うと、
「何者」かで在りつづけることの重さに耐えられない。


未来の君が手に入れるのは「エースの呪縛」。

最優秀社員として表彰されたのち、君は部署内でエース扱いされるだけではなく、他部署やクライアントからも一目置かれる。
「彼女の意見は参考になるから、彼女の意見を聞いてみて」

その是非は別として「何を言うか」よりも「誰が言うか」に注目されていると勘違いしそうになってしまうほどの勢い。

「下手なことは言えない」と思うようになった。

今まで「+α」くらいのつもりで当たり前にやっていたことが、いつの間にか「重要な仕事」になってしまった。

今思えば「+α」の業務を「当たり前」にやっていたことが、周りより頭一つ抜けて見えたのだろう。
なんでもそう、人の良いところというのは、その人にとっては何も特別なことではなく「当たり前」なところだったりするのだ。


「もしもお門違いなことを言えば責任問題になるかもしれない」
「今さらこんな当たり前みたいなことを言ってもレベルが落ちたと思われるかもしれない」
「凄まじい勢いで業績を伸ばしている同僚の勢いが怖い」
「トップで在らねば、エースで在らねば」
「期待に応えられる自分でいなければ」

そんな雑念が、業務の効率をさらに下げる。
そりゃあそうだ。視線の先にあるものが業務の対象ではないんだもの。
自分が「何者」かで在りつづけることに視線が向いている。


「何者」かになろうとすること、
「何者」かで在ろうとすることは呪いだ。

「何者」かになんてならなくていい。

自分は何がしたいのか。自分自身はどう思うのか。
自分の当たり前を、当たり前に続けられるようになれ。

まわりがそれを特別と思っても、
自分のなかでは当たり前でありつづけること
そこにしか、君の思う「好きな自分」はいないと思うんだよ。

自分でコレジャナイと思ってしまうような
「何者」かになりたいわけじゃないでしょう。

自分で自分を誇れるような
「好きな自分」でいたいんでしょう。





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