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「愛する」ということ

「愛する」
というのには大きく分けて2つがあると思う。
自分を愛することと、
自分以外を愛すること。

私はずっとずっと、子供の時から
「愛する」ということが苦手だった。
だって誰も教えてくれないし。
授業で習うわけじゃないし。

①「自分」を愛する

私だけじゃない、
おそらく多くの日本人は
「自分を愛する」ということが苦手で、
自己肯定感が低いように思う。
真面目で几帳面な方が多く、
空気を読んだりおもてなしをしたり相手を思いやる性質、他人に迷惑をかけることを悪しとする風潮。
自分が好きと言える人はなかなかいないのではないだろうか。

私の場合、
私は人が思っている以上に不器用で、
理解したり何かができるまでに人一倍時間がかかるし、天才ではないからちゃんと勉強しないとテストの点は取れないし、
大事なところで抜けていて驚くようなミスするし、
心配性だし予想外のハプニングが嫌いだし、
刺激が苦手で心は繊細だし、全然強くないし。

うまく行かない日や失敗してしまった日は
自分の中でずっと、
ぐるぐるとその出来事が反芻される。
誰かに迷惑をかけてしまった、
誰かを不快な気持ちにさせてしまった、
あぁするべきだった、こうした方が良かった。
家に帰って自己反省会。
責任感が強く真面目でストイックであるが故の、
自問自答と自己嫌悪が繰り返されてしまう。
それゆえに人に頼ることも苦手だった。
自分の弱い部分を、
不完全な自分を人に見せることが怖かった。

いつも見えないバリアを人に張って
変に自分の体裁やプライドを守って
取り繕った自分で人に接していたように思う。
なかなか本音を見せることができず、
自分ですら自分を愛することができず、だからこそ
人から愛される自分すらも信じられずにいた。

②「自分以外」を愛する

その点、何かを「好き」になることは簡単だった。
少なくとも私にとっては。
自分で言うのもなんだが結構恋愛体質な方だとは思うので、好きな異性は比較的すぐできたし
恋愛に限らず結構広く人のことは好きでいられる方だと思う。
夢にまでして追いかけた動物という存在、
食べ物や場所。
でもその好きがドロドロとした
「執着」や「依存」のようになってしまうことは何回かあったと思うし、
自分を大切にしてくれない人まで無理に大切にしようとしたり、好きであるが故の、好きでありたいが故の「押し付け」や、そのために自分も他人も傷つけてしまったことがあった。

変化

でも最近、やっと
「自分と他人を愛する」ということが
少しずつわかるように、
できるようになってきた気がする。
それは【アフリカ---ウガンダでの生活】も影響しているだろうと思う。

①'なーにもうまく行かないウガンダライフ

日本にいたときはなんと言えば良いのか、
おそらくきっとできることが当たり前で、
できないことの方が少なかった。
できないことも努力でカバーできるようになったり、誰か何かに助けられたりした。

だが、ウガンダで生活・活動をしていると
何 も う ま く い か な い !!!!!!
わろた。
私が無能だからとか
仕事ができないとかではなくて、
アフリカという特性が全ての予想を上回ってくる。
今日は9時に話し合いをしてこれをする、という
その日単位の小さな目標すら、
同僚が来ないとか大遅刻してくるとか話し合いがまとまらないとか急な別の予定が入るとかetc etc、
何もうまくいかない。
うまくいかないことの方が圧倒的に多い。
そしてそれは自分のせいじゃない(自分の力ではどうしようもない)ことも多い。
一応言っておくが、今回はウガンダ人や国をけなしたいわけではない。一応。笑
でも、本当にそうなのである。
毎日毎日うまくいかないことばかりだと、
自分を責めたり反省するのも追いつかなくなってくる。
というか、反省するところもない。
(本当にどうしようもないことが多いので)。
一方でじゃあその原因を作った張本人(ウガンダ人)はというと、あっけらかんとして全く反省もしていないし、反省したとしても秒で笑ったりジョーク言ったりするし、次も当たり前に同じことを繰り返してくる。

真面目に自分を責めたり深刻に考えることが、馬鹿らしくなってきた。
ということで、まず自分を責め暗くなることが圧倒的に減った。
「しょうがない」精神でいられるようになった。

①'②'ウガンダ人の言葉

以前活動の中で、あまりにビッグマウスで
やると言ったことをやらない、約束を守らない、
そのくせ自分の主張や意見は強く自分を曲げない、
めちゃくちゃに振り回される
といった同僚と一度本気で衝突したことがあり
私がブチギレて荒れたタイミングがあったのだが、
それを他の同僚に愚痴として聞いてもらった時に

「Yuki、わかるよ、君の言いたいことはわかる。彼はよくなかったね。
でも許してあげてほしい。人間は誰しも弱いところがあるんだよ」

同僚:Emmaさんの言葉

正直この発言、捉え方はさまざまで
だからそれを、反省して次に生かせよ改めろよって話だよ
と思う部分もあるし、
事実今までの私はそういうタイプだったから、ちょっとおん??と思う部分もあったけれど、
それ以上になんというか、あぁそうだよな、とストンと腑に落ちた部分もあった。
完璧な人間などいなくて、
それは私も例外ではなくて、
でもそれを受け入れ、認め、許し、そうして
悪いところも弱いところも含めてその人を愛するということ。
分かったようで理解っていなくて、
簡単なようで難しくて。
でもウガンダの人は、みんな、そういう考えのもと人と接しているのだ。

他人にこうなってほしい、こうして欲しいと思うのは人間だもの仕方がないと思う。
でもその人を無理矢理変えさせたりすることは
いくら自分の意見が正論だとしても。
相手を自分の思い通り都合通りに変えさせたいだけで
時に相手という存在を否定することで
それって真の意味で正しいだろうか、
と考えたりする。


それから、喧嘩した同僚とは
お互いごめんねと言って、これが嫌だったとか話し合って、向こうにもYukiのこういうとこは良くないと思う、こうして欲しいと言われ、今ではまた普通に話せるようになった。
相変わらずイライラしたり怒れることはあるけれど、できるだけ歩み寄り理解できるよう気をつけようなんて思う。

全人類と良い関係を築くなんて、不可能かもしれない。
けど、折角80億人いるうちの人生で関われた数人。
どうせならネガティブよりポジティブな関係性でいたい。
人間関係というものは煩わしいことも多いけれど
だからこそ分かり合えたり共に何かを成し遂げた時嬉しくなるものだ。

自分を愛すると

思えば協力隊として訓練に参加したあたりから、
自己開示を少しずつ少しずつできるようになり、
それは他の人に比べてものすごく遅くて時間がかかったことかもしれないけれど、
自分が考えていること、苦手なこと、嫌なこと、
こうしたいという主張や展望、好きなこと
今まで言えていなかったことや自分の中で処理しようとして処理できなかったものたちが溢れて溢れて、
自分でも気づかなかった過去のトラウマとか
その時の何にそんなに傷ついていたとか、
それに対してどうしたらいいかとかいろんな人の意見を聞けて

そんな自分を嫌だと思う人はもちろんいたと思うけれど、
そんな自分を応援し愛してくれる人たちもたくさんいて
私はやっと本当の意味で私に素直になれたし
自分が嫌な自分や目を背けたい自分も含めて、
それも自分だと受け入れて
自分を愛し許すということが、前よりちょっとできるようになったかなと思う。

自分がありのままの自分でいることは、
怖く、もっと人に迷惑をかけ、悪いことなのかと思ってた。
でも自分を取り繕わずに済むことは
こんなに楽で、こんなに心穏やかに過ごせるのか、
ということにやっと気づいた。

一生を1番長く一緒に生きる自分。
切っても切り離せない自分。
その自分を嫌いで許せないでいるよりは、
愛して優しく抱きしめてあげれた方が良いに決まっている。
私より顔が整っている人、
私より性格がいい人、
私より頭がいい人、仕事ができる人、
私にない才能を持っている人、
そんな人は世界中にたくさんいるだろうけれど、
その中で私は小さな小さな豆粒でしかないけれど、

そんな私と出会い、そんな私を愛してくれる人。
そんな私が良いのだと、大切にしてくれくれる人。
その人たちを大切にするためにも、
愛や恩を返すためにも、
私も、その人たちが愛してくれる私を愛したい。

偽りの仮面を被った自分で無理して接していてもそれはある意味その場凌ぎでしかなくて、本音で接していない相手に失礼で、自分の首を絞める行為で、巡り巡って自分も相手も苦しめることだと気づいた。
だから今までそれで傷つけてしまった人には、ごめんなさいと伝えたい。

誰かを愛するということも、
それは恋愛的な意味でもただの人間関係という意味でも、今まで大好きだった動物という存在にも---
なんだか少し捉え方が変わったように思う。
自分を少し愛せるようになった時、
他への依存や執着を減らせた気がする。
とても身軽になって視界が開け、
その分ありのままの「その人、もの」を愛せるようになった気がするのである。

本当の私を知ることは、本当に私が大切にしたい人やものを見間違えないことに繋がる。

それに少しだけ気づけた今、
人間関係や活動内容は変わっていくにしても、今までより少しは生きやすく優しく朗らかな気持ちでいられる気がしている。
トゲトゲして殺伐として、たくさん表面上の絆創膏を貼って誤魔化していた私の心は
今やっとだいぶ丸く、温かくなったような気がするのです。


時間かかっちゃったな。
でもそれに気づけたのはやっぱり
そういう殺伐とした気を張っていた時の自分がいたからで。
がむしゃらに無理して戦っていた私がいたからで
そうして疲れてボロボロになっていた私がいたからで
対比できる私が、いたから。
やっぱり私はその私も受け入れて
そのおかげで今があるよと言って
抱きしめてあげたいなと思います。

今私は
ちょっとだけ自分のことが好きで、
自分のことを愛してくれる人たちは
もうちょっと大好きです。








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