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世界滅んでも繁栄したい!ヒトが一ツ目になる未来。

 街明かり照らす文明社会も一寸先は闇であり、いつどんな理由で崩壊してしまうかはわからない。
 人類の未来を考える時「文明が崩壊する」可能性は必ず想定するべきだ。

 人間は社会動物であり、その進化経路は「理性」を強化するルートに入っている。
 理性とは長い目で利益を考えられる知能のことであり、現代人は新世代ほどこの能力を伸ばし平和で効率的な世界を推進していっている最中だ。
 こうして人が社会に密接に参加し、理性で縛り付けることで我々は衝動任せに行動するケダモノにならずにすんでいるのだ。
 欲しいものを奪わないのも、
 好みの異性を襲わないのも、
 憎い相手を殺害しないのも、
 我々が高度な社会を形成することで“理性的に振る舞ったほうが生存に得”という環境を維持しているからに他ならない。

 しかしある時、何らかの理由(戦争か事故か、もしくは地球の気まぐれか…)で文明が一気に崩壊する。
 秩序は崩壊し物資は枯渇、環境は汚染され生活が困難になる。
 そんなとき大切な家族を、自分の命を守るのは、果たして「理性」だろうか?
 そんなわけはない。
 社会なき環境下で人はケダモノに戻った方が有利なのだ!
 高度社会なんて増えすぎた人類が共食いせず共栄できるよう作られた相互補助システムに過ぎない。
 文明とは種の生存に余裕のある動物にしか許されないいわば「遊び」なのだ。
 人間は社会動物の前に生物なのである、何よりも生存・繁栄を目指さねばならない。
 今日の食事すら危うい状況下では理性など捨て、目先の利益を一刻も早く確保すべきなのだ!

 「理性」の対局にある感情は「情動」である。
 それは理性よりもはるか昔から人の行動を決定づけ、生かしてきた素晴らしき知能…自分の血族と他者を差別する原始的で本能的な行動原理だ。
 手に入る餌や居住空間が限られている以上、まずは自分の身内の安全を確保したいと思うのは生物として当然のことである。

 そして終末の世界で生きる人間は苛烈な生存競争をはじめる。
 貧しく危険な環境に変貌した地球では攻撃性や決断能力の高い個体のみが生き残る。
 争奪戦を勝ち抜くための戦闘(狩猟)能力、そして人体がそんな世界観に適応し、能力上限をぶち抜くための進化を遂げる。

 一ツ目(モノアイ)である。
 前面に一つだけついた巨大な瞳は現生人類を遥かに凌ぐ反射能力を実現し
 、優れた決断能力と瞬発力を与える。
 しかし人類は、一ツ目になる過程で、「複眼」を併せ持つことになるのだ。
 本記事では複眼モノアイを手に入れた未来人を便宜上「単眼種(モノアイ)」と名付け、退廃世界を生き抜く人類の在り方を解説する。

なぜ一ツ目にならなければいけないのか

 そもそもどうして(たいがいの)生物は眼が2つなのだろう?
 端的に言うと「たまたま目が2個ついた生物が発展したから」だ。
 眼という器官の進化は非常~~~に偶然性が高く、もともと二ツ目だった生物が奇跡的に、数万年に1つずつ有効な新機能を追加していき肥大化、巨大な水晶状の組織にまで至った経緯がある。
 そのため「現代生物は眼が2つであることを活かした進化をしてきただけで、眼が2つでなくてはならない決定的な理由はない」のだ。
 それを証明するようにモノアイや3つ目の生物はいくらか存在している。
 彼らはたまたま生物進化のメインストリームになれなかっただけで、十分な可能性は秘めているのだ。

 現在の我々は「カメラ眼」というカメラ製品と同じ構造の高性能な目を有し、
・視差による立体視
・自動ピント調節機能
・遠方を見通せる視力
・自動光量調節機能
・広い色相(光)を感知できる網膜
と非常に多機能である。
 その代り、あえて逆さまの像を2つ取り込んで脳内で反転・合成処理をしてようやく認知するという複雑な処理工程を要する(そのせいで今認識している視界は現在時間よりわずかに昔のものだ。)

 これは刹那の判断を求められる戦闘行為で一瞬の遅れが生じる原因になる。
 では現世生物のカメラ眼を出し抜きたい時、どんな体質が望ましいだろうか。

 それは「複眼」の獲得だ。
 複眼は現代生物においてカメラ眼と並び高度に発達した種類の眼で、視力が低く光(色)の認識数が少ない代わりに、画像処理が単純で動きを捉えることが大得意だ。

 しかも人間は巨大な脊椎動物。
 複眼を手に入れるにしろトンボやハチのようにレンズをむき出しにする必要はない(というか脳を保護する都合上、頭部面積のほとんどを複眼にするのは危ない)。
 そのため昆虫ほど全方位的な視野角は手に入れられないのだが、困ることはない。人間は逃げるためではなく狩るための複眼を手に入れようとしているのだ、なにも背後まで見渡す必要はなく、視野角は現生人類と同じくらいでいい。
 だから人間が持っている水晶状のカメラ眼に、複眼を搭載してしまえば良いのだ!

 しかも「狩猟者」である人類の眼はもともと前面についているが、2つの画像を合成処理する手間すら省くため目は2つに一体化してしまう。
 カメラ眼の我々はこの時点で致命的な視野障害が起こりかねないが、複眼を併せ持つなら話は違ってくる。
 カンブリア紀にいたカンブロパキコーペがそうだったように複眼は一ツ目の欠点(立体視の不得手さ)を補うのに最適なのだ(ちなみにミジンコなんかも複眼のモノアイだ)。
 この組み合わせを持つが脊椎動物に至らなかったことは残念でならない!

人類は多数のレンズを一つの眼に集約する。

 こうして合体した目は、自由になった頭部スペースを活用し眼球を更に巨大化させる。
 これにより100万もの個眼の数を確保し、現代人と同等の画像認識能力を実現。
 光受容細胞も膨大に配置でき、色認識においては不可視光(紫外線や赤外線)を認知できるほどに大きく向上する。
 また、巨大になった瞳は視野角の確保にも寄与し現生人類と同等(左右120度)を見渡せる。 
 生物進化の歴史は眼の進化の歴史といって差し支えない。高機能な視覚が生き延びるチャンスを高めてきたのだ。
 未来人類は、これまで我々が磨いてきたカメラケース(眼球器官)に複眼を積載することでさらなる進化を遂げたわけだ。

 また単眼種は複眼生物から進化した人類ではなく現生人類から進化した複眼生物であるため、カメラ眼の特性の一つ「光感度調節」も備え夜目が利く。
 レンズ絞り機能がなくなった代わりに視野は常に全開で視界がぼやけることがないため、危機的状況下においても即座に行動できる。

 構造上みえる世界は(我々が片目をつぶった時程度に)平面的にはなるものの、抜群の動体視力を実現。
 また、眼球が巨大化したことで(複眼の焦点距離の短さが災いし)視力が上がることはないのだが、頭蓋骨の構造が単純化されたぶん脳周りの強度をはるかに上げる。

 つまり単眼種は「現生人類並の画像認識と昆虫並みの動体視力を併せ持つ」人類なのだ。
 立体視が苦手な分、現生人類ほど複雑な格闘技術は失われてしまうだろう。
 だが直線的な攻撃や奇襲、危機察知能力と回避運動はお手の物だし、よしんば攻撃を当てても硬く頑丈な頭部を破壊するのは難しい。
 格闘技のように組み合って戦う戦闘スタイルは廃れ、中~近距離で敵を翻弄しながらヒット・アンド・アウェイで着実に敵を削る狩猟的持久戦を再興する。
 また、複眼特性で色認識を拡大させた彼らから保護色やそれに類する隠蔽術で逃げ切れるとは思わないほうが良い。
 個体あたりの戦闘能力も高いのに、小規模ながら集団戦を上手くこなす彼らは群れるともはや敵なしだ。

巨大な一ツ目が育むミクロで濃密な社会性

 眼の機能はなにも画像認識だけではない、これまでの人類が育んできた「コミュニケーション能力」の一助になっている。
 巨大で象徴的なモノアイは、直情的でわかりやすいアイ・コンタクトを実現できる。
 それは高度で複雑な言語や社会通念を前提にコミュニケーションを難解化さている現生人類とは真逆の、喜怒哀楽が単純で強烈な方向に意思疎通能力が偏っていくということ。
 この直感的で即断的な社会性は実は組織のリーダー向きの資質である。ミクロな社会を形成する単眼種は種全体で見た時リーダーにあたる個体が多く、敵意と好意を明確に使い分けられるこの原始的な社会性はうってつけなのだ。

 その社会レベルはまさに原始時代。
 しかし現代を経由しただけあってとても情的だ。
 資源の貧しい未来世界において多くの仲間を持つことは飢えて共倒れになることを意味するためさほど規模拡大は出来ないのだが、生きていける範囲(多くは家族)で組織し、強い絆を育み団結し、ミクロな繁栄を繰り返す。

 単眼種は現代の広く浅い繋がりの社会を捨て、狭く深く情を育む小さな社会に回帰したのだ。

 単眼種の祖先になるのは、社会生活が苦手でも家族愛が強い情の深い人間なのだろう。

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