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映画『マイ・ブロークン・マリコ』感想 遺された人だけに与えられた哀しみと権利

 原作を読んだ時の衝撃を、そのまま再現出来た大成功作。 映画『マイ・ブロークン・マリコ』感想です。

 ブラック企業に勤めるシイノトモヨ(永野芽郁)は、TVのニュースに衝撃を受ける。それは、幼馴染で親友のイカガワマリコ(奈緒)が自宅のベランダから転落死したという報道だった。
 亡くなった実感の無いまま、シイノがマリコの部屋に向かうと、部屋は既に片付けられ、遺体は葬儀をあげることなく荼毘に付されたという。マリコが幼い頃から実の父親(尾美としのり)に虐待を受け続けていたことを知るシイノは、マリコの遺骨が父親の手に渡ったことが許せず、奪うことを決意。マリコの父親と再婚相手のタムラキョウコ(吉田羊)が暮らす部屋に押しかけて、遺骨を強奪する。マリコが、海へ行きたがっていたことを思い出したシイノは、遺骨を抱えて「二人旅」に赴く…という物語。

 漫画家・平庫ワカの初連載作品『マイ・ブロークン・マリコ』を原作にして、『ふがいない僕は空を見た』『浜の朝日の嘘つきどもと』などで知られるタナダユキ監督が実写化した作品。原作漫画は個人的には2020年に読んだ漫画作品でダントツ1位だったので、かなり期待していた映画化作品です。
 結果として期待に応えてくれる素晴らしい実写化作品でした。物語は知っているはずなのに、冒頭から終盤まで終始泣きっ放しになっておりました。
 
 キャスティングが発表された時、原作漫画を読んでいる人なら誰しもが永野芽郁さんの名に疑問を感じたのではないでしょうか。主役のシイノは、タバコを吸いながら酒を煽って悪態をつく、やさぐれたヤンキー女性のキャラクターだったので、朝ドラ『半分、青い』や、同じく漫画原作のドラマ『ハコヅメ』での、マヌケでポーッとしたカワイイ女優さんというパブリックイメージとは真逆のキャスティングだと思います。
 ただ、今作での永野芽郁さんの演技は、今までになくドハマりしているものになっています。技術で演技の幅を見せつける、というよりは、本当の感情として永野芽郁さんが泣いたり絶叫をしたりしている感じです。シイノが持っている哀しみの感情が、永野芽郁さんが感じた哀しみとして本物になっている印象を受けました。
 
 漫画作品の再現を実写にすると、どうしても台詞が多くなって現実には不自然なシーンになってしまうんですけど、本作ではマリコの遺骨があることで、それほど不自然さは感じなくなっています。シイノが旅行の準備をするときにも、マリコの遺骨だけが映されていて、これによってマリコがシイノを見つめているように感じられるショットになっているんですよね。マリコの遺骨がキャラクターに感じられるような効果になっていて、その後も続くシイノの独り言が、マリコに向けている言葉であるということで、受け入れられるようになっています。
 
 かなり原作漫画に忠実な映画になっていると思いますが、忠実であるからこそ、漫画としての「」と、映画としての「」の効果や意味合いの違いがよくわかるようになっていると思います。遺骨を抱いて眠るシイノが、子どものマリコを抱いて眠る姿に変わるシーンとか、原作そのままのショットですが、その後の回想で出てくるシイノの膝枕にすがるマリコと重なるし、マリコが「シイちゃんの子どもに生まれたかった」という望みと重なっていくんですよね。映画的な伏線シーンになっているような効果があるように思えました。
 後半でシイノが吐き出すように叫ぶ「死んでちゃわかんないだろ」という言葉も、漫画だとシイノのキャラも相まって、哀しいけどどこかユーモアがある台詞に思えたんですけど、永野芽郁さんが吐き出した切実で、めちゃくちゃ本質的な部分を突いた言葉に感じられたんですよね。親しい人に先立たれた人、皆が感じる事だと思います。
 
 また、原作にはないシーンについても、全く蛇足にならず、必要な物語のパーツとして意味のあるものになっています。バスで目にする女子学生とのシーンも、単体のものとして旅情的ですごく良い場面になっているんですけど、原作にもあるクライマックスのシーンへと繋ぐものになっています。
 マリコが死んでも、シイノが勤める職場、その他の社会には全く関係がないという描写は原作よりも強調され、クライマックス後にシイノがまた、クソみたいな日常に埋没していく描写が入ることで、さらに意味を持たせていると思います。
 窪田正孝さん演じるマキオからもらった駅弁を、シイノがかっ込む場面も、原作にはないけれど、全く違和感なく必要なシーンになっています。死んだ人のために生きていこうとするということを、ものすごくポジティブなメッセージにしているシーンですよね。
 
 この物語の素晴らしいところは、シイノとマリコの関係性を美しく描きつつも、決して理想の関係としてはいないところだと思います。自身の不幸に囚われて、不幸でしか自己表現を出来なくなってしまったマリコの生き方を、シイノはずっと否定し続けていたわけだし、シイノの本当の声をマリコは聞こうとしていなかったとも言えるんですよね。奈緒さんが、壊れた可憐さを持つマリコも原作そのもので、憐れであると同時に、恐ろしさを持ち合わせた表現になっています。
 マリコとの哀し過ぎる今生の別れは、シイノがマリコの重圧から解放されたとも感じられるんですよね(本人は全く望んでいなかったわけですが)。そして解放と同時に、マリコが望んだ、シイノとずっと一緒にいるという願いも、図らずも叶ってしまったと言えます。
 原作が話題となった時、女性同士の恋愛を描く「百合もの」と評されているのを見かけたんですけど、あまりそれはそぐわないものに感じられたんですよね。この映画でも、この2人の関係性は他者によるカテゴライズが出来ない、この2人だから成り立っていた関係性に思えます。
 
 魂から結びついていた2人が、実は大きく隔たっている部分がある関係性だと感じたんですけど、それがしっかりと結び直されたのは、マリコの死だけでなく、無関係だったマキオの存在も大きいように思えます。マリコが死の彼岸に渡ってしまい、シイノが生の淵で立ちすくむ断絶を、両方に足を踏み入れた経験があるマキオが繋ぎ合わせるという構図になっているように思えました。二枚目感がなく、優しい男性を演じた窪田正孝さんも、素晴らしい役割を果たす演技でした。
 
 ラストの手紙の内容は、多くの人が考察をしていますが、それぞれの言葉を当てはめるのが最も正しい解釈だと思います。先立った人が何も言ってくれない代わりに、「あの人ならこう言うだろう」と勝手に想像するのは、遺された人に許された特権だと思うんですよね。この作品でも、回想シーン以外のマリコの言葉は、全てシイノが想像したマリコの言葉なんですよね。
 だから、あの手紙には観た人が欲しかった言葉を当てはめるのが良いと思います。そうすることで、様々な人にとっての先立ってしまったマリコが、その人の心で生きることになると考えております。シイノのように哀しむ思いはしたくないけど、これほどまでに人を想うことが出来るという関係は、正直羨ましく思えてしまいました。
 
 原作のサイズ的にも、映画にしやすい作品だったとは思いますが、これほど理想的な実写化も珍しいですよね。永野芽郁さんと奈緒さんは、何かしらの主演・助演で賞を獲るのは間違いないと思います。原作漫画もそうでしたが、とてつもなく哀しい物語のはずなのに、とてもエネルギーを与えてくれる、良い意味で「矛盾」している物語です。大傑作。


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