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【長編小説】 抑留者 11 

 磨利の家をあとにした尚文は、沈鬱な気持ちで浜に面した県道を歩いた。
 あの悪魔の住む家には、もう二度と近寄らないつもりだった。磨利はハーおいやんの四十九日が済むまでは家にいると言っていたが、ハーおいやんの遺骨を墓に納めてしまえば、すぐにでも東京に飛んでいくだろう。高校生活も中途だが、そんな規制は磨利の理屈のなかには存在しないに違いない。何食わぬ顔で、三ツ谷の女の座につくことは目に見えていた。そうなると、おそらくもう帰ってくることはないのかもしれない。それならそうで、尚文にとってはありがたいことだった。むしろ戻ってきてくれるなというのが本音というところだ。
 磨利の家を出たときには、刑期を終えてようやく監獄から解放されたばかりの囚人のような気分だったが、県道を歩き進むにつれ、新鮮な海風が尚文を少しずつ元気づけていった。
 そうやって歩いていると、少しずつまともな考え方ができるようになってきた。するとまず思い浮かんだのは、三ツ谷のことだった。かわいそうな三ツ谷。磨利に目をつけられたがために、人生をメチャクチャにされる運命を背負い込んでしまった、とてつもなく運の悪い男。
 でも……。
 そのとき、ひたひたと寄せる波のように、尚文のなかに暗い情念のような気持ちが湧き上がってきた。
 あいつは俺の大切に思っていた女を、独楽子を、取るに足らないもののように扱い愚弄ぐろうした。独楽子がずる賢い嘘つき女だったのは事実だが、俺は、一緒に過ごした二年間の思い出をさえ、宝のように心の一番大切な場所にしまっておいたのに。三ツ谷は独楽子のことを完全に見下していて、その愛情と肉体という美味しいところだけを都合よく頂戴ちょうだいして、飽きたおもちゃをトレードするように、いとも簡単に手放したのだ。
 むしろ本気になって、愛し大切にしてくれたほうがまだましだった。そう思った。
 尚文は、独楽子に寄せていた自分の気持ちごと三ツ谷に侮辱されたような気がしていた。
 三ツ谷は所詮しょせん、見かけだけの薄っぺらい男だ。尚文はそう断じた。それは未成年の磨利にまんまとおとしいれられ、利用された悔しさへの反動から来たもののようにも思われたが、尚文は「三ツ谷はこれぐらいのことをされて当然だ」と、自分に言い聞かせるように呟いた。そして、美徳の人、誰に対しても感じのいい人たらしの三ツ谷が、これから磨利によってどのような〝ひでえ〟目に遭わされるのか、それを見てみたいと思うような嗜虐しぎゃく的な気持ちが一瞬心のなかに浮かんだ。自分のどこにこのような底意地の悪さがひそんでいたのかと驚いたが、それはきっと、磨利のもたらした邪悪の残渣ざんさのようなものなのだろうと自分を納得させる。
 「人間は本質的に残酷なもの」と言った磨利の言葉を思い出した。あるいはそれは、磨利のつく千の嘘のなかの三つのまことのうちのひとつなのかもしれない、と思う。自分のような〝ぼんくら〟のなかにもこんな残酷な部分があったのかと思うと、奇妙なことだが、ようやく人並みの人間になれたような気がした。
 すると突然、驚くほど気分が楽になった。
 いずれにしろ、もう自分にできることは何もないのだ。そう切り捨てると、途端に尚文の足取りは軽くなった。 

 
 その日もいつもと同じように、尚文は祖父に朝食を運んだ。
 いつものように、黙ってうつむいたまま祖父と向かい合ってご飯を嚙み、味噌汁を飲んだ。すると、祖父がぽつりとこう言った。
「尚、お前は何かしたいことはねえんか」
 驚いて顔を上げると、祖父は自分のほうを見つめていた。困惑したようにまた顔を落とすと、
「もう、この年寄りに付き合っていつまでもこの家におらんでもいいんど」
 祖父は言った。
「お前のおかげで、山本にも再会できた。お前にシベリアの話もできて、お前はネットとか何とかいうのに俺の話を載せて、この先ずっとたくさんの人に読んでもらえるようにしてくれた。おおきにな。俺はもう何も思い残すことはねえわ。……ほいたら最近、どうもお前をここに縛りつけちょるような気がしてきてのう」
 そうやって話す祖父の顔は、まぶしいほど晴れ晴れとして見えた。
「俺はもう気持ちに区切りをつけて、いつでもあの世に行ける」
 祖父はさっぱりとした、一片の悔いもないような声で言った。
「時絵には折を見て話をする。お前がお前の人生を生きんで、どうするんか」

 二人分の膳を母屋に運んで、台所の時絵に渡すと、尚文は再び家の外へ出た。何だか、そのままいつものように自分の部屋へ戻りたくない気分だった。
 ぶらぶらと家の前の県道を歩いていたが、気がつくと高浜岸たかはまぎしに立っていた。海岸いっぱいに広がる黒い砂が、歩を進めるたびに重く足下にまとわりついてくる。
 この浜で、磨利と交わした会話を思い出していた。磨利が先祖だと言い張っていたアイルランド人の亡骸なきがらは、この浜のどの辺に捨て置かれていたのだろうか。
 ふっ、と、風に乗って、遙か昔に死んだアイルランド人の声が聞こえるような気がした。
 
 この浦で このまま朽ちて死んでいくのか?
 遺棄されて、とびにつつかれ、狸にかじられ、満潮になれば魚たちが来てつつかれるのか?
 そうして骨ばかりになるまで、ただ外から浸食され続けているつもりなのか……?
 
 さっきの祖父の言葉について考えた。何かしたいことはないのかと言われても、すぐに思い浮かぶこともない。
 尚文は自分のこれまで生きてきた道程を振り返ってみた。幼少期から、中学・高校時代、東京での大学生活に続く、短い社会人生活……。
 そうすると、ふと、自分の人生にははっきりと手応え・・・のある経験がひとつもないことに気づいた。いつもただ、周囲に流されるままに、ぼんやりと輪郭りんかくのない道を無自覚に歩いてきただけのように思う。その茫漠ぼうばくとした道のりには、愛もない。友情もない。絆と呼べるようなものは何ひとつなかった。
 独楽子にはまんまとだまされて、二年間住み場所と食事を与え、それと知らずに雲隠れの手助けをしていた。ハーおいやんの家で起きたことにしても、成りゆきで罠にかかり強制されたとはいえ、磨利のような恐ろしい女に三ツ谷を引き渡してしまった。
 すると、突然そのことが悔やまれて仕方なくなった。三ツ谷は少し軽薄なところはあるが、根はいい男である。美徳の人、人たらしというのは、本当に彼のためにあるような言葉なのだ。その三ツ谷が、またともに過ごそうと言いにわざわざこの遠い辺境のような地まで自分を訪ねてきてくれたということが、いままた尚文の胸に迫ってきた。
 シベリアで地獄を生き抜いた祖父でさえ、人生の終焉において一緒に泣き合える尊い友を持っている。死んでいった友の数を加えれば、祖父にはあの世に行ってから手を取って再会を喜び合える仲間が大勢いる。
 ーー自分には、たったひとりの友がいるかいないかだということを、そのとき尚文は悟った。その友を、永久に失ってしまうかもしれない。無為という何の実りもない荒れ野に、自分で自分を抑え留めているのは誰だったか。尚文はハッとした。
 すると、一刻も早く、どうしてもやらなければならないことがあることに気づいた。
 三ツ谷に会わなければ。
 ハーおいやんの四十九日が明けて、磨利が東京に出るまでに、何としても三ツ谷を説得しておくのだ。恐らく磨利はもうすでにラインで三ツ谷に接触しているはずだから、三ツ谷に磨利と関係を深めることを思い止まらせるのは難しいかもしれない。だが、尚文はやらなければならないと思った。磨利とのあいだに起きたことも、包み隠さず話して磨利がどんな女かを重々説明する。三ツ谷が信じてくれるかどうかわからないが、真剣に説得して、あの女とつき合えばこの先どんな辛苦が待っているかを理解させなければならない。三ツ谷は頭のいい男だから、この話を正確に理解するだろうという目算はある。
 逆恨みした磨利が、あとになって尚文にレイプされたと騒ぐかもしれない、とも考えた。しかし、磨利の家で脅されたときは度を失って冷静な判断ができず言いなりになってしまったが、いま冷静に考えれば事態は違うという風に思われた。まず現実的に、あのせんみつ・・・・の言うことに浦の人々がどこまでまともに取りあうだろうか。磨利は子供のころからオオカミ少年の上を行く大ボラを吹き続けてきた。話すこと話すことあまりに嘘ばかりなので、近い血筋の親戚ですら呆れ果ててもう誰も磨利の話を聞く者はいないほどだった。それに、引きこもりとは言っても尚文は地域での社会的な信用は厚かった。ぼんくらと呼ばれてはいても、尚文は昔から裏表のない正直者で通っていた。誠実であるという点で言えば尚文ほど誠実な男はいないことを、浦の人々は知っている。
 それでももしどうしても家族に迷惑がかかるようなことになったならば、この土地を離れて二度と戻らない覚悟もあった。
 とにかく親友のために、いまできるだけのことをやろう。
 考えれば考えるほど、いても立ってもいられなくなった。尚文は家に取って返し、自分の部屋に駆け込むと、ありったけの現金とクレジットカード、着替えの衣類をナイロンバッグに詰め込み、携帯電話でタクシーを呼んだ。バスなどで悠長に出発する気はなかった。
 渡り廊下を走りながら、母屋の居間にいるはずの時絵に向かって叫ぶ。
「義姉さん、ちっと東京まで行ってくるわ! すまんけど、おらんあいだ、じいちゃんのこと頼んでいいかのう!」
 目を丸くして廊下に出てくる時絵の返事も待たずに靴を履き、玄関から飛び出した。事後承諾もいいところだった。
「本当にゴメン! 連絡するけえ!」
 そう言い置いて、門から県道に出ていった。

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