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【長編小説】 ヒジュラ -邂逅の街- 9

 ――結局その日、私は百人近くの署名をもらって宿に戻った。アフマドは、やはり昨日にも増して張り切り、心に誓った通り、昨日より随分多い数の署名を持ち帰った。サーレムも、ほぼ昨日と同じ。女将も親戚や知り合いにも頼んで、枝葉の末端の人たちにまで名前を書いてもらえるよう根回しをしていた。数日もすれば、大量の署名が手元に届くだろうと女将は目算していた。
 驚いたのは、今日ハシムさんとともにナディルも現れたことだった。彼はその手に、今朝の倍もの数のビラを携えていた。印刷屋に頼み置いていたものを、受け取ってきたのだそうだ。私が今日受け取ったビラはもう全部配ってしまったと言うと、ナディルはその半分を渡してくれた。今日ハシムさんが集めてきた署名の数は……と、ライバル心を燃やしつつドキドキしながら眺めているアフマドの前で、ハシムさんは今日の成果を伝えた。それはアフマドのより少なかった。
 小さな競争者は再び頂点に登りつめ、目を見開き、興奮した声で、
「やったー!」
 と叫んだ。一同はどっと笑った。サーレムと父親は手を叩きながら、まるで自分のことのように嬉しそうに笑っていた。
 ――それから数日間、私たちは忙しく駆け回って過ごした。徐々に巡礼の日が迫ってきていたので、急がなければならなかったが、かと言って、署名がいくつ集まった時点で嘆願に行くか見極めなければならなかった。審議会を驚かせ、市長を通して街じゅうに発表しても反論の出る余地がないほどの数をそろえて、住民全体の意志であることを証明する必要があった。それでいて、審議会がいつ随行者を発表するかというのもはっきり決まっていたわけではないので、私たちは言わば毎日恐々としながら過ごしていたのである。
 ナディルは、数日間仕事を休んでまでビラ配りと署名集めに奔走した。週に一度の集団礼拝の場でさえ、彼はビラを配っていたという。私も引き続き、街頭に出て署名を集めた。ハシムさんも自分の身内や知り合いに頼んで、一人でも多くの賛同者を得ようと尽力してくれていたし、二人の兄弟も、一日じゅう街を駆けずり回ってくれていた。この子供たちに関しては、いつもの父親の仕事の手伝いから離れてほかの事ができるので、単に喜んでゲーム感覚でやっているような節もあった。だがそれだけに熱中するのか、結局いつも一番数を稼いでくるのはアフマドで、実際この署名運動にもっとも貢献したのは彼だと言えるかもしれなかった。
 ――そしてついに、その日は来た。
 以前からエスメラルダの女将が念をかけていた、親戚知り合いが集めてくれていた署名が届いて、私たち全員が集めたものと合算すると、街の人口の半数を越えていたのだ。
「これなら、もう出してもいいだろうね」
 女将は満足気に言った。
 そこで、誰が提出しに行くかという話になった。いまや常態となった、宿屋エスメラルダの大食堂で皆で一緒にとる夕食のときに私たちは話し合い、その結果、私が署名と嘆願書を提出しに行くことになった。もちろん、私一人では荷が重いので、サポートと通訳を兼ねて、女将がついてきてくれることになった。
「役所に出向くなんて、何年ぶりかね。亭主の死亡届を出しに行ったとき以来だよ。……だけどあたしも緊張するね。さて、どうなることやら……」
 女将は言った。
 翌日、私たちは審議会が設置されている会議所を訪ねた。
 会議所は市役所と隣り合っており、ほかの建物と区別するためか、砂色の街のなかでこの二つの建物だけが全体を白いペンキで塗られていた。なかに入ると、タイル張りの床の広々としたホールがあり、守衛の男性が立っていた。女将はその男性に、審議会の代表に会わせてくれるよう頼んだ。いかめしい顔つきをした守衛と二、三の問答をしたあと、私たちは奥の執務室に通された。
 部屋には、五十がらみの恰幅のいい男性が座って何かの書類に目を通していた。私たちが入っていくと、ずらしていた眼鏡を持ち上げ、上目使いでこちらを見た。彼は見事な黒髪の持ち主で、やや狭い額のせいで年齢よりも若く見えた。せり出したお腹と額に深く刻まれた皺さえなければ、三十代や四十代でも通りそうだった。
「この人は、市長だよ」
 女将が言った。市長は審議会の会長を兼任していたのだった。
 女将は前に進み出て、挨拶をした。市長は低い堂々とした声で挨拶を返した。
 私たちは、持ってきたこの街の住人の半数を越える署名を差し出した。きちんとした形式で書かれた嘆願書もある。これは女将が知り合いの弁護士に作成してもらったものだ。
 市長はその嘆願書に目を通した。彼の目のなかに、善良な人の、情け深い光が閃いたような気がした。市長は“闇夜”がこの街にやってきたときのことを思い出しているのだろうか、段々と遠い思い出を辿るような表情になっていった。
「そうか、彼女は巡礼を希望しているのか」
 市長はそう言った。
 実際、審議会はこれまでに数回開かれていたのだが、市長は多忙のためまだ一度も出席しておらず、それゆえ“闇夜”が応募者のなかにいることも知らなかったという。
 嘆願書をひと通り読んだあと、市長は感慨深げだった。
「よし」
 市長は言った。
「この嘆願書と署名のことは、重く受け止めよう。この街の民意を反映してもいるしね。私はこれを審議会にかけて、公正な選出が得られるよう尽力することを誓うよ」
 私たちの顔に明るい光が広がるのを見届けながら、少し考えるような顔をしていた市長は言った、
「個人的には、私も彼女を気の毒に思っていたんだ」
 ――ここで、絶対に他言無用だが、秘密は守れるか? と市長は切り出した。私たちが、ぽかんとして、顔を見合わせ、取りも直さずうなづくと、彼はおもむろにある独白を始めた。
 それはあの日市長だけが聞いた、“闇夜”の犯した“罪”についてのことだった。
 
 ――面会を許され、市長の執務室に入るやいなや、“闇夜”は膝まづき、必死の形相で天を仰ぎながら懇願したのだった。そのときの切羽詰まった様子を市長はいまでもありありと覚えているという。出立した当初はしっかりしたものであったろう旅装も解け、みすぼらしい身なりで長い間放浪していたのがひと目でわかるほどだった。
 “闇夜”は北の方の国の出身だった。生まれながらに炭のように真っ黒な肌を持ち、子供のころは幾分虚弱であったため、両親はこの娘の嫁ぎ先について悩んでいた。彼女が年ごろになりつつあったころ、遠い親戚を頼んで、何とか結婚相手を見つけることができた。両親はほっと胸を撫で下ろしたが、当の娘にとってはそれは不幸なこと以外の何ものでもなかった。そう、彼女には互いに想いを寄せ合う相手がいたのである。両親が、自分たちが見つけてやらなければこの子は一生結婚なんてできないだろうと思い込んで心配していたところを、皮肉にも娘は真剣に愛し愛される男性を、自分で見つけていたのだった。だが、そこには戒律がある。娘が両親の決めたことに抗うことは、すでに戒律に反していた。それに加えて、両親は、せっかく骨を折って頼み込んで承諾を得た結婚相手に対して、こちらから断るなどということはできなかった。もっとも恐ろしいのは相手方の家に恥をかかせてしまうことで、向こうを怒らせてしまえば子々孫々の代まで遺恨を残すことにもなってしまいかねず、この婚約を破棄するなど両親にとっては論外だった。
 だが、“闇夜”は結婚を拒んだ。昼夜を問わず説得が行われたが、“闇夜”は決して考えを変えなかった。そしてそうするうちに、ますます恋人への想いは募っていった。
 しまいに父親の語調が変わり、言うことを聞かないと彼女の存在自体を脅かすことになる、といったような言葉を吐くようになったとき、彼女の決意は固まった。
 “闇夜”は恋人と示し合わせて、出奔したのである。
 家を出る日の前夜、彼女はひとり泣いた。幼いころから優しく育ててくれた両親への恩を思うと、身が張り裂けそうだった。だが、あの父親の脅し文句……。あれはひど過ぎた。父からそんな言葉を聞かされるとは思ってもみなかった。それは、これまでこの家で何不自由なく暮らしてきた、彼女の幸せな少女時代の終焉を意味した。父と彼女の絆は深かったから、人生のうちでこんなに早く、しかもこんな形で父と別れることになるというのは、彼女にとって一番辛いことだった。
 出立の日、彼女は朝早く、まだ夜も明け切らぬうちに家を抜け出して、恋人との待ち合わせの場所に着いた。彼女はそこで、人生初の、そして最大の恐怖心と闘った。夜明け前の通りにはまだ誰もおらず、路上には自分ひとりだけだった。道路を吹き渡って肌をさらってゆく風はいままで感じたことがないくらい冷たくてよそよそしかった。不意にお腹の底のほうから不安が込み上げてきて、やっぱり家に帰ろうか、とさえ思った。自分の立っている足元が少しずつぽろぽろと崩れ落ちていくような気がして、目眩めまいがした。心細さに泣き出しそうな気分になって、思わずきびすを返そうとしたそのとき、彼が現れた。――その顔は、そのとき彼女を世界で一番安心させられる顔だった。
 二人は、国境へ向かった。国外に出てしまえば、例え追手がかかったとしてもより見つかりにくくなるだろうと考えてのことだった。
 ところが、互いの両親の動きのほうが早かった。早朝の祈りを終えたあと、母親は娘のいないことに気づいた。彼女が半狂乱になって夫に知らせると、父親は街の方々に散らばって住んでいる親戚全部に連絡し、彼らを探し出すよう依頼した。そのころまた、恋人の家でも同じ手順が踏まれていた。一族の結束は固く、その機動力たるや恐るべきものだった。彼らは一斉に捜索を開始し、街じゅうに張り巡らされた蜘蛛の巣のような情報網を駆使して、それから一時間と経たないうちに、街外れで二人を捕まえてしまった。――ほんの一瞬の逃避行だった。二人は引き離され、それぞれの家に連れて帰られることになった。
 親族に乗せられた車のなかで、“闇夜”は、今度は家に帰ることが何よりも怖くなった。恋人と会えなくなったことは絶望的に悲しかったが、だが、それよりも現実的な恐怖が、彼女の前に頭をもたげてきていたのだ。刑務所に入れられるのだろうか。刑期を終えて出られても、そのあとはどうなるのだろう……? この先の人生が真っ暗闇に思えた。
 ――と、そのとき、突然街角にジプシーの群れが現れた。
 彼らは数十人の歌い踊る集団で、まるで何かを祝うかのように賑やかに楽器を鳴らしながら通りを進んでいた。車を運転していた親族の男はチェッと舌打ちしたが、車は見る見るうちにジプシーに取り囲まれてしまった。
 ジプシーたちは奇声を発したりくるくる回ったりして、彼らの乱痴気騒ぎに夢中だったので、自分たちが通行の邪魔をしていることにも気づいていない様子だった。車は完全に立ち往生してしまった。
 このとき、“闇夜”の頭のなかにある考えが閃いた。それを実行に移すかどうか、彼女は随分長い時間迷った。それは彼女の人生を大きく変えてしまう、しかも以後に何の保証もない選択だった。
 ――永遠とも思える時間が過ぎた――。
 親族の男が業を煮やしてクラクションを鳴らし始めたとき、まるでそれがきっかけであったかのように、彼女の胸は大きく拍動を始めた。自分の乗っている後部座席のドアの取っ手を掴んだ手は汗でびっしょり濡れていた。彼女は運転席の男に振り向く間も与えないほど素早く、渾身の力を込めてドアを押した。二、三人のジプシーを押しのけてドアは開き、“闇夜”はジプシーたちの秩序なき群列のただなかに躍り出た。最高潮を迎えていた歌い踊る人々の祭りは、途中で加わった仲間たちも合わせて膨れ上がり、いまや数百人単位の大群衆になっていた。親族の男が見つけることができないように、人ごみのなかへなかへと、“闇夜”は逃げた。彼女は自分が発狂したと思った。それはまるで目隠しをして、真っ暗な淵に飛び込むような感じだった。懐かしい我が家、優しかった父と母、兄妹たち……。いずれ必ず彼らが恋しくなってむせび泣く日が来るだろう。いや、彼女はもう泣いていた。ジプシーたちの狂乱めいた楽しくも異様なパレードのなかで、彼らの歌や音楽に合わせて、彼女は気が狂ったように泣きわめいていた。それはほとんど野生動物の咆哮ほうこうのようであり、また、彼女の魂にとっては、大いなる解放だった。そして裏を返せば、彼女がこれまで属していたコミュニティからの、追放・・でもあった。
 
 
 ジプシーたちは、彼女を“気のふれた女”という呼び名で呼んだ。あの祭り・・のあいだじゅう、躍る人々の真んなかで狂ったように叫び続けていたからだ。彼女のその声は彼らの音楽の哀調を帯びたメロディーに見事に呼応していたので、自然と彼らの気に入った。ジプシーたちはこの“気のふれた女”をはやし立てた。そして彼女は、思いがけず外から入ってきたにもかかわらず、この新たなコミュニティに“受け入れ”られたのだった。
 そのころ、ジプシーたちには、遠距離の移動の計画があった。狭いが二つの陸地をしっかりと隔てている海を渡って、その後は陸路をずうっと南下していくというものだった。船は用意したが、乗れる人数は限られているし、長い困難な旅になるだろうことはわかっていたので、行く者よりもここに残る者のほうが多いくらいだった。ジプシーたちは“気のふれた女”に、この旅についてくる気があるかどうか聞いた。彼女の答えはひとつだった。ここ以外の場所に行けるというのなら、世界じゅうどんな土地だって同じだ。いまやここを離れることのみが、自分の痛切な望みだ、と、彼女は答えた。
 その数日後に、百人ほどのジプシーが、船に乗ってその土地を離れた。船の上で、占いをするという女が“闇夜”を占ってくれると言った。戒律のことが気になって、彼女は躊躇ちゅうちょした。戒律では、占いを信じた者は、神への祈りを四十日間拒絶される。
「じゃ、勝手にやるから、信じなきゃいい」
 ジプシーの女はカードを切り始めた。
 “闇夜”は船尾のほうを眺めた。幼いころから憧れ続けた海だったのに、目の前にしても何の感慨も起きなかった。一秒ごとに、段々と、しかし確実に遠くなっていく故郷を見ていると、何だか虚ろな、どうでもいいような気持ちになってきた。“それなら四十日間空の祈りを行えばいいわ”と、開き直った考えさえ持てるようになってきていた。
「あんたの運命だよ」
 ジプシー女はだみ声で言った。
「ふん……。大きな転機を迎えているね。そりゃあそうさね……。そして…“旅”の暗示が出ている。いまこのときが、旅の始まりだね。……そして、未来は、と」
 審判を待つ人のように、“闇夜”は両手を広げて目を閉じていた。
「明るい未来が開けているようだよ。“恋人”のカードが出てる。あんたを導く人が現れるよ。それからあんたを守る人たちも。深い結びつきを持てる人たちに巡り合えるみたいだねえ。良かったじゃないか」
 ジプシー女は片目をつぶって見せた。
 また、女は独特の霊感を働かせて、“闇夜”の行くべき場所までをも言い当てた。あんたは私たちと一緒に旅していくうちに、ひとつの“街”に留まりたくなる。それは一面砂の色をした城塞の街だよ。――そして実に、その女の言った通り、“闇夜”はこの街に導かれ、城門をくぐった、ということだった。
 市長がこの長い独白を私とエスメラルダの女将の前で始めてから、数時間が経っていた。女将が私に通訳をしてくれる時間に加えて、役人たちが書類にサインをもらうために入ってきたことで何度も中断しなければならなかったが、それでも市長は決して話を止めることはしなかった。
「君たち、その理由がわかるかい?」
 瞳の奥に、ある特別な光を宿しながら市長は問うた。私たちは首を振った。
「この物語を、私はもう何年も、ずっとひとりで胸に秘めていたんだよ」
 そして、深く長い溜息をついて言った。
「それは、簡単なことではなかったよ」

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