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【長編小説】 初夏の追想 13

 ……心から気の合う仲間を見つけるということは、意外にも難しくて、その歳になるまで私はそんな人間に巡り合ったことがなかった。そして、そんな相手は生きている限り、きっと現れないのだろうと思っていた。というのも、私自身が、非常に特異で偏った性向を有しているからであり、しかも(それゆえ、と言った方が適切だろうか)実際に他人に心を開いて自分のふところの中を見せるということに、これはもう病的と言えるほどの強いためらいを覚えるからだった。
 でもなぜか、その母子おやこには、私は最初から親しみを感じて自然に心を開くことができるような気がしていた。祖父から、彼らが世界的に有名な大財閥の家の人間であること、ちょうど思春期にさしかかるくらいの年齢の息子が、対人的なことに関する深刻な病を患っているということを聞かされてからも、不思議なことに、彼らに対する私の印象は、いかなる影響も受けなかったのである。
 
 ある日のことだった。祖父は犬塚夫人の前に行って、こんな申し出をした。
「貴女と貴女の息子さんの肖像画を、描かせてもらえませんか?」
 二人のあまりによく似た様子を見ているうちに、突然インスピレーションが湧いたというのである。
犬塚夫人はこの急な申し出に、しかしまったく動じる気配もなかった。彼女は泰然として微笑み、もちろん、と、喜びを露わにするように華やかな表情で応じた。
「昔、頼み込んで私の肖像画を描いていただいたんですもの、お返しをしてさしあげなければ。そうおっしゃるのを待っていたようなものですわ」
 細い目をさらに細めて、彼女は妖艶に笑った。
「ああ、そういえばその絵、僕も拝見しましたよ。戸棚にしまってあったもので。あれはこの家に置いてありますが、奥様が持っていなくてもいいのですか?」
 私は言った。その途端、なぜかその場の空気が変わった。祖父は仏頂面をして向こう側を向き、私は何かまずいことを言ってしまったのかと固くなった。
 犬塚夫人はうなづく代わりにもう一度その目を細めた。
「いいんですのよ。この家に置くために、わざわざお願いして描いていただいたの。この絵の置き場所は、この家なのです」
 夫人は念を押すように言うと、いつものようにソファに沈み込むように座っている守弥をうながした。意外なことに、守弥は夫人のいうことを素直に聞いて、立ち上がった。
「早速かかりましょうか?」
 夫人は笑い、祖父の画架イーゼルの前に自ら椅子を二つ運んで、そこに守弥と並んで座った。
 
 そうして同じ姿勢で並ぶと、母子おやこはますますそっくりだった。奇跡的なほどに、守弥は犬塚夫人に瓜二つで、まるで彼女が分裂して小さな守弥が出現したか、それとも年の離れた有り得ない奇妙な双子のように見えた。向こうが透けて見えそうなくらいに白い肌、艶のある美しい黒髪、そして小さく細い目のなかに理知的な光を放っているとび色の瞳、というあるひとつの外見上の特徴を、母子おやこは分け合っているようだった。
 
 彼らの肖像画に取りかかると、祖父はまるで憑かれたように仕事に熱中し始めた。まずは木炭で簡単なクロッキー画を何枚か描いた。二人の座る距離や光線の角度に細かな指示を与え、近づいてみたり遠く離れてみたりして、床に白いテープを貼ってモデルの位置を固定した。
そしていよいよ油絵の具を画布の上に載せた瞬間から、祖父は創作の世界に入り込み、神懸かりのようになって描き始めた。
 私は祖父の隣に立って、母と子が覚悟を決めたようにしゃちこばって身動きせずにいる様子をずっと眺めていた。そうして居並ぶ彼らの様子は、見ればみるほど見事だった。お互いの持つ輝きが呼応し合うとでもいうのか、そして瓜二つであるという奇妙さが、不思議な存在感を放っていた。眺めるうち、私はふと、マグリットの描く超現実主義シュールレアリズムの絵を見ているような気分になった。
 彼らはまるで使命感に燃えるように忍耐強くそこに坐り続け、祖父にその姿を画布の上に写し取らせていた。守弥は顔色が悪かったが、その瞳は不思議なくらい理性を秘めて光っていた。彼は非常に何かに集中しているように見え、自らも絵を描く者の情熱をもって、祖父の制作における些細な仕草や表情、特に絵筆を運ぶ手の動きに注意を払っているように見えた。
 そして、犬塚夫人はというと……。私は彼女の姿から、奇妙な印象を受けた。彼女の表情はいつものように捉え難かったが、それでもこのときには一種のはっきりとした目的を示しているように見えた。彼女は祖父の顔をまっすぐに見据え、その瞳には何か希望のような、晴れがましさがうかがえた。そしてそれでいて、どこか懇願するような、ひっきりなしに祈りを捧げるような、狂気めいた光を放っているのだった。
 
 じっと見続けているうちに、しまいには彼らが神前に捧げられた生け贄のように思えてきて、私は一瞬目眩めまいを覚えた。

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