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【ホラー短編小説】 淵 4

 その日、怜子叔母さんは大学の同窓会に出るといって、ひと晩留守にした。親戚筋にあたる、白浜の、田原のお夏婆が泊まりに来てくれた。

 その夜は、激しい雷雨になった。遠くで太鼓を叩くようなドンドンドンという雷鳴がなり始めると、激しい雨が浦全体を覆った。
 稲妻が一定の間隔を置いて寝室のカーテンを鋭く照らす中、はじめは奇妙な夢を見ていた。
 どこか深い、とても深い、緑色をした池のようなところから、誰かの呼ぶ声がする。

 はーじーめー、はーじーめー……

 と、その声は最初はか細く、かすかに聞こえるだけだったが、段々近づいてくるようで、次第に大きくはっきりと聞こえるようになった。
 一はその汚い緑色をした池に近づいていって、上からのぞき込んだ。
 吐瀉物のような嫌な匂いがした、と思ったら、池から小さな手がにゅっと飛び出てきた。
 驚くひまもなく、赤子のものほど小さいその手は、慌てふためいたようにあちこちに指を動かし、何かを探していながらそれが見つからないのでイラついてでもいるように、腕全体をばたつかせている。

 は~、じ~、め~……

 その時、一の耳もとで、くっきりとした声が聞こえた。それは複数の人の声のようであり、大人の女の人の太い声と、小さな獣が立てるような、鋭く尖った警告音のような声が入り混じっていた。

「うわあーっ!」
 と叫んで、一は跳び起きた。そしてキョロキョロと周囲を見回した。今耳もとで、確かに声がしたはずだ。でも部屋中のどこにも、自分以外の何ものの気配もない。
 
 稲妻が、またピカッと光った。部屋の輪郭と、一の着ているタオルケットの模様が一瞬青く浮かび上がる。そしてまた闇が戻り、そのうち待ちかねていたように、雷の音が轟いた。
 ゴロゴロゴロゴロ……
 一は汗だくになって、タオルケットの下に潜ったまま怖さに耐えていた。

 
 
 ――腐ったような臭いがしたって? いつや? 夕べ?
 翌朝朝食のときに夕べの夢の話をすると、白浜の、田原のお夏婆はふーん、と何ごとかを考え込むような表情をした。そしてしばらく何やら考えていたが、やがて落ち着いた様子でゆっくりと口を開いた。
「昨日は時化しけやったろうが。がいと、、、風が吹きよったけえ、海もそうと荒れたやろう。やあけ磯にハコフグの死骸がようけ打ち上がっちょったって漁師が言いよったわ」
 それが臭うたんやろうのう、と、一のコップに麦茶を注いでくれながらお夏婆は言った。
 嗅いだのは、腐ったような臭いではない。吐瀉物のような、何とも嫌な感じの臭いだったのだ、と一は言った。が、何かはぐらかすように、お夏婆は泰然とした様子を崩さなかった。そんなお夏婆の表情を見ていると、一はそれ以上言いつのることができなかった。

 午後になり、一は縁側の日陰で昼寝をしようと横になった。すると、お夏婆が側に来て座った。
 ウトウトと夢うつつのまま、一はお夏婆の気配を感じていた。
 お夏婆は、しばらくのあいだ、団扇うちわで風を送ってくれていたが、ふと思い切ったように、小さな声でポツリポツリと語り始めた。

 一、 お前にはの、知らんやろうけどの、本当はあにやんがおったんよ。
 お夏婆は言った。
 ――双子の兄やんよ。お前が生まれるときにの、母ちゃんはそうとうの難産での、先にお前が出たあとに

「何で俺が先に出たん? 兄やんやなくて」

 遮るように、一は言った。驚いた顔を見られたくなくて、目を閉じたままだったが、ひどく性急な言い方になってしまった。

 ……最初に出てきたお前が弟よ……腹ん中で上におるほうが兄になるきいの……
 お夏婆は噛んで含めるように言った。

 ほんで最初にお前が出てきたあとに、兄やんのほうはなかなか産みきらんでの、ほんでの……、とうとうダメやったんよ。お前と違うて兄やんは、よう育ちきらんでな、えっと赤子の形にもようならんでな、死んで生まれてきた。
 時にはの、そげな運に恵まれん子どももおるもんよ。お前が可哀想やき、みんなそんことぅお前に言わんかったんやけどの。

 不意に、目を閉じている一の目の前に、深い緑色をした池のイメージが現れた。それは昨夜見た夢の中に出てきた池とまったく同じものだった。汚い緑色のその池は、やはり夢の中と同じ吐瀉物のような嫌な臭いがして、薄暗い視界の真ん中、ちょうど池の中央辺りに、丸くうずくまったできかけの、、、、、赤ん坊のような物体が収まっていた。

 「どげえすることもできんわのう……」
 陰鬱な声で、お夏婆は言う。
「自分だって、一人前に生まれてきて、子どもらしいことをしてみたかったやろうけどのう」

 ……そうか、お前兄やんに会うたんやの、多分そうじゃわ。
 ほんで、あの淵にゃあ女の死骸が浮いちょるって? 
 ほいたら婆ちゃんも明日て見てみるかのう……。
 本当なら、どうかせんといけんしのう。

 一をなだめるように言う、お夏婆の優しい声が聞こえた。

 緑の淵の中で、丸くうずくまったまま、〝兄やん〟がにやりと笑った。

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