思考論_第一章_のコピー

3-3|経済にお金は必要か?【1日3時間だけ働いておだやかに暮らすための思考法】

 時間がお金になると聞いてもピンとこない人も多いだろうが、実は個人の時間は、本質的に通貨として適している。

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たくさんの方に手に取っていただいた「1日3時間だけ働いておだやかに暮らすための思考法」(プレジデント社)。大反響を記念して、8/14限定で全文を公開します! 令和時代の生き方・働き方をぎゅっと凝縮した一冊です。

お金で買えないもの・作れないものを時間がカバーする

 お金は水などの日用品を手に入れるには便利だが、一定のモノやサービスにしか使えない。芸能人の友達に相談するとか、大学で学生に講義するとか、それを可能にするのはお金ではなくて、信頼で結ばれた関係性、つまりネットワークである。

 では何がお金の代わりをするかと言うと「時間」なのだ。
 裕福な家庭においても、子どもを承認し育てるためにはお金よりも時間をかけなければならない。効用に比例するものはお金ではなく、自らの時間ということだ。

 何かを生産するにしても、モノの原価よりもその目的と条件・状況の理解、企画、社内外のステークホルダー(利害関係者)との信頼関係の構築、コミットメントの醸成、資源の調達、そして実施にかかる期間のほうが大事になっている。

 つまりあらゆる経済活動はモノではなく、時間によって生産・蓄積されるのだ。お金が時間に変化し始めるのは、自然な流れである。モノを交換するのにお金は便利だが、関係を築いたり、一緒に楽しんだりするような価値の共有なら、時間のほうが通貨としてふさわしい。

個人に帰属する数字は時間しかない

 時間通貨を、エネルギーを閉じ込める資源という観点から見てみよう。
 何かを起こすにはエネルギーが必要であり、エネルギーとは集約された資源のことである。
 お金の強みは、それが数字で表現されるということ。数字という最も明確な膜の内側に信用と価値を閉じ込めることができる点だ。

 一方、個人(individual)とは本来〝分け(dividual)〟〝がたい(in)〟という意味であり、信用の母体の最小単位となる。〝分かちがたい最小単位〟というのは、信用と価値を閉じ込めることができる最後の砦であるからだ。

 信用の希薄化された現代の中央銀行が発行する通貨はコントロールできる範囲が限界にきている一方で、時間とは国家や社会集団の信用ではなく、個人(individual)の信用に帰属する数字である。そして、この個人が〝発行〟できる外部化された信用こそが時間通貨である。

 時間は、信用の最小単位であり、個人が発行できる最大の汎用言語である「数字」であることによって、最高に有効な通貨としての地位を担保できる。

すべての人にとって公平な時間通貨

「公平性」も、時間が現代の通貨として適している理由の一つだ。

 貨幣はすでに偏在が激しい。世界の民主化が進むとともに、富の偏在がますます不公平を助長している。結果として社会の不安は拡大し、経済は不安定になっている。

 米国では、CEOの給料が一般社員の100倍以上であり、金融機関で働く上級社員のボーナスを含む給料が、一般企業の管理職の10倍である。この現状に対して、その労働と対価の整合性が取れない。

 富の世代間による格差も大きい。たとえば日本においても、金融資産の80%以上が65歳以上の人々によって占められている状況では、経済の新陳代謝が起きず、結果として国民全体とその未来に対して健全な状態とは言えない。

 古き良き時代、安定的な通貨の持つ価値貯蔵機能は、現役時代に生産した価値を保全し、引退後も経済的に困らない点で有効だった。
 しかし世界の人口バランスが高齢化し、生産人口比が低下していくと、非生産者(多くは資産を持つ高齢者)に経済的権力がシフトしてきた。これは社会の新陳代謝や不均衡を増長させ、社会秩序にマイナスの影響を与えていく。

 これらの状況に対し、時間は公平性を与える。人の時間は個人差こそ多少あれど、大きな差異がない。それゆえ機会について公平と言えるだろう。

時間通貨はつながりと物語を保全する

 時間は先ほど紹介した「文脈の毀損」を防ぐという効果もある。

 すでに見てきたように、文脈価値はお金(数字化)によって損なわれていく。貨幣取引によって文脈が断絶するとそのお金(=財)は、単に価値としての機能を持つだけの「匿名の財」となる。このような既存のお金は、既存の産業工程の中に取り込まれ、標準化・細分化されることでさらに価値を減らしていく。
 一方で文脈価値は、時間(歴史・つながり)によって生産される(図27)。

 そしてそれらのお金は、通常、信頼のおける人たち(知識・社会的承認など時間をかけて紡いできた人々)の直接的な継承によって文脈価値を保全される。つまり、時間を起点とした直接取引を行うことで、お金の持つ文脈が保全されるわけである。

時間通貨の未来

 お金がお金たるには発行主体も形態も本来は関係ないわけだから、時間が通貨になっても何も不思議なことではない。「タイム」という単位の時間通貨が生まれるのではないかと思っている。

 ちなみに時間通貨においては、時間あたりの価値は伸縮する。

 たとえば経験の浅い新入社員と百戦錬磨の課長の「1時間あたりの価値」は大きく変わって当然である(図28)。

 とはいえ、それが5分単位で売られていたとすると、1時間単位と比べてあまり差がないかもしれない。それは5分ではできることが限られてくるからである。こうした価値の判定をどう行うのかということも、今後の面白さを感じさせる課題である。

 しかし、やがて人々の時間を預かり融資する時間銀行が出現し、個人の時間の価値に焦点が当たる時代がくる。図29を見てもらいたい。

これは未来のお金と経済システムを端的に表したものである。

 まずは、左下の①の領域。これは20世紀までの経済、すなわちお金を使ってモノをやりとりしていた資本主義経済のことである。そこから今後どうなるのかというと、その上の領域、②の時間主義経済やその右下の領域にある③の記帳主義経済へとシフトする。そこから右上の④の信用主義経済へ進むだろう。

記帳主義経済

 まず③の記帳主義経済とは、その都度通貨をやりとりするのではなく、「貸し借り」を記録することで経済が回る社会のことである

 お金の起源は貝殻だと信じている人が多いが、その起源は「記帳」にある。あげたもの、もらったものを各々書き込んだ歴史にあるのだ。
 たとえば料理ができない人にとって、料理を提供してくれる人は価値が高い。料理を提供した人は「料理をしました」と記帳する。お金の精算はしない。

 このようにそれぞれの価値をお金を介さず直接やりとりし、記帳することで価値を高めていく。

 記帳主義経済では、一人ひとりの取引がすべてデジタル台帳に記帳され、それがすべての人に共有されるため、騙したり隠したりすることができない。ブロックチェーン技術やIoT技術によってこうした新しい社会が実現するだろう(そもそもブロックチェーンの正体は「分散台帳」であり、記帳そのものである)。

 仕事をしたらクレジットをもらい、レストランで食事をしたらクレジットが引かれる、街中で老人を助けたらクレジットをもらい、人に暴力を振るったらクレジットが引かれる、発言に共感してもらえたらクレジットをもらい、反感を買えばクレジットが引かれるといった具合だ。

 数字が記帳されている資本主義経済では、誰の目から見ても富の多寡は明らかだが、物品を記帳するこの経済システムでは、それを見た人の価値観や趣味、嗜好、ほしいものによって価値が変化する。これが最大の魅力である。

信用主義経済

 図29の右上にある④の信用主義経済は、人々が求めるものが信用であり、それをやりとりするツールも信用であるという不思議な世界である。これはまだ理解しがたいかもしれない。しかし実際に今世紀の半ばから2100年までには現実化していくと思われる。

 信用主義経済の世界で皆が求めているのはまず「承認(社会的欲求)」であり、それはいわゆる信用にほかならない。お金を使わずにやりとりするツール(手段)も信用である。つまり、「皆が信用を求めていて、それをしかも信用でやりとりする」という世界ということだ。手段と目的が信用という一点で統合した世界、それは名実ともにお金がなくなる世界を意味している。

 20世紀まではある意味不思議な世界だった。人々がほしがるものはお金であり、それをやりとりするツールもお金だった。新卒就職ランキングのトップも金融であり、お金が世界の王様だった。お金は、古代は価値交換・貯蔵の手段であったにもかかわらず、それ自身が目的と化していたのだ。

 しかし21世紀の半ばから終わりにかけて、今度は求めるものもその手段も信用になるという事態が起こるのである。そこでハブ(中間物)としてのお金はなくなる。なぜなら、人々が求めているものが承認やつながり、人々の関係へとシフトしていき、中間物であるお金などが少ないほど〝純度〟が高くなるからである。

 お金という中間物と社会的な欲求は、どちらかを増やすとどちらかが減ってしまうトレードオフの関係にある。そんな世界において人々は、より社会的欲求への純度を高め、結果としてお金を使う機会を減らしていく。このようにしてお金は、徐々に経済活動のツールとして使われなくなっていくのである。

 ここまでの話を整理すると、通貨は信用から生まれ、信用は価値の蓄積で成り立ち、貢献には時間を費やす必要があり、時間は心身の健康を前提とする。

 つまり、通貨(お金)は健康(エネルギー)から生まれる。

 だからもしお金がほしいなら、まずは健康(技術と知識と行動)に投資すること。そのうえで、時間→価値→信用の順に投資していくのが資本主義社会の王道である。

 ときには信用を得るために「いい人」を演じなければいけないケースが出てくるだろうし、中には仮面を被って虚像を売って評価を得る人もいるだろう。

 ただ、終始仮面を被る生活は健全な生き方とは思えない。だからこそ重要なのは、できるだけ早くキャラクター設定をして、軸を持って生きることだと思うのだ。

 とはいえ、品位は大事な要素である。丁寧な言葉遣いをする。下品な言葉は使わない。挨拶やお礼をしっかりする。靴を揃える。きれいな箸づかいをし、ご飯を最後の一粒まで食べる。約束を守る……。

 こういった古典的な所作を徹底していく必要があるが、それほど難しくはない。

 むしろ恐ろしいのは、本格化するであろう超記帳主義社会の到来である。

 ブロックチェーンがもたらす完全記帳経済は、やがて貨幣そのものを駆逐するだろう。個別の取引と信用がガラス張りとなる世界ではもはや、貨幣という数字にわざわざ入れ替えて取引する必要がない。しかしそこで人々は、監視と社会的倫理に怯えながら資本主義社会を懐かしがることになる。

 その後、超記帳主義社会は記帳ブロックのクラッシュによって終焉となるだろう。それでも人々は資本主義に戻らず、次の世界を選ぶ。それが信用主義だ。資本主義は格差と富の偏在と混乱をもたらし、時間主義経済は、労働の奴隷化を助長し、記帳主義経済は監視社会を生み出す。どれも一面的にはディストピア(反理想郷)に見える。

 このような監視社会に対して不安が募るのは止むを得ない。一度でも炎上や黒歴史を残してしまえば一生ネット上、あるいはブロックチェーン上に刻まれてしまう世の中になるかもしれないからだ。

 しかし、その後はどうだろうか。おそらく一元的な監視体制に疲弊した人々が新たなコミュニティをゼロから作り、監視社会の中で生きづらさを感じる人たちはそちらに避難していくだろう。次項で述べるマルチコミュニティの時代だ。そのようにして人間は社会のアップデートをくり返していくはずだ。そこまで心配する必要はないかもしれない。

 逆に、お金のなくなった未来から見れば、「価値を数字に入れ替えてやりとりする「今の貨幣経済」がどれだけ滑稽に映るだろうか。

 関係が主役である時代では、価値とはつながりや物語そのものであり、貨幣という数字で分断したその瞬間に価値は消滅する。その話は次項に譲ろう。

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