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「平等」という幻に殺されないで

「個性」って、何なんだろう。自分探しなんて始めた暁には、あるはずのゴールにたどり着けなくて沼にはまるのだろう。
自分にしかないもの、自分だからできること、自分らしさ、自分に正直に。己だからこその価値みたいなものが大事だと謳われているけれど、そういう類の自己表現って、たまになんだか苦しくなる。変わっていくし、気づいた時には自分が自分で無くなっている気がするし、いつも迷子だ。

唯一無二の存在として自分を確立させるなんてこと、24年生きてきたけどまだできていない。
何者かにならないと社会は受け止めてくれないし、その何者になれたとしても、なり続けることができる人は一握りなのだろう。
自分が何者か、わからない。なれと言われても、わからない。
なれというのなら、なるための方法を教えてくれ。

わたしたちは、生まれたときから不平等だ。同じ星で生きる、人間という同じ生物なのに、ひとりひとりがこんなに違う。
ドッペルゲンガーなんてものには会ったことがないから言えるけれど、この世に同じ人間なんてものは存在しないのだろう。
育った環境も違い、見てきたものや食べてきたもの、学んだ言葉や触った体温。どこかしら違って、でもたまに似ていて、面白さと残酷さが混じり合っている。
持っているものも、与えられたものも、全部違う。その「違い」こそが、利点にもなりうるし、時にはコンプレックスにもなる。
人間とは不思議な生き物だ。

小学生の時、給食の時間が嫌いだった。
同じ器に、同じくらいの量が盛られたその御膳にワクワクしたことはあまりない。
好きな揚げパンがメニューだった時はちょっと嬉しかったけれど、覚えているプラスの感情はそれくらい。

学年全員同じ器、同じ並べ方、同じ時間の食の共有。
均等に盛られたあの給食って、本当に「平等」だったんだろうか。

わたしは小食だったから、食べきれないことが結構あった。好き嫌いはしなかったけれど、物理的に胃の大きさが、給食のお椀と合っていなかった。
そんなわたしの横では、体格のいいクラスの男児は食欲旺盛で、わたしと同じ量では足りないらしく、許される限りおかわりをしていた。
おかわりが許される環境で良かったなと思ったけれど、それと同時に「なんで残させてくれないんだ」と腹が立った記憶がある。
食べ物を残すことがよくないことだなんてことはとっくに知っていたし、残して怒られるのもストレスだったから、最初から「少なくしてください」と言うようにしていた。
だけど、「好き嫌いしないでたくさん食べなきゃダメでしょ」と、さも当然のことのように言われる。好き嫌いなんじゃなくて、量が多いから減らして欲しかっただけなのに、大人はそれでは頷いてはくれない。
「たくさん食べるのがいい子」みたいな謎のフィルター、しんどかったしその真意もよくわからない。

同じであることが正しい場では、同じでいられないものは悪になる。
みんなが均等であるということは、そこで求められているルールに従って、みんなが均等に「合う」ように育てられるということ。
そこからはみだすことは、許されないのだ。

家庭以外での教育というのは、社会で求められている、正しいとされる最低限のルールやマナーを植え付ける行為であるとわたしは思っている。集団で学ぶことにより、同調や主張というものがどういうことであるかを知り、私たちが生きる社会というものを垣間見る。

同じって、同じじゃない。
同じであるように揃えられたものは、全然平等なんかではない。
集団を前にして無理やり平等を押し付けているだけだ。
平均を勝手に決めて、正しい大きさを大人が決めて、それに合わせられて、上手に適応するように生きるしかない私たちだ。
体格も、感性も、足りないものも、長所も、ひとりひとり違うのが人間だ。
それが個性だというのならば、教育の場というものはそれを静かに殺しているな、と思ってしまう今日この頃。

学生時代に、家庭教師のアルバイトをしていた。担当していた子は数学がとても苦手だったけれど、暗記は得意だったから重点的に伸ばしてあげて、無事にその子は学校に合格した。
勉強は苦手だったけれど、ずば抜けて絵が上手い子だった。漫画家に劣らず、女の子の絵をたくさん書いていて、それを見せてもらった時ドキドキした。これがこの子の才能なんだと。

だけど、そんなものは義務教育においてなにも意味がないのかもしれない。そういう持っている才能を伸ばすとか、その子が本当に求めていた「何か」は、学校にはなかった。
ないのに、進学をしなければいけない。それなりの学歴があることが、まだ就職には求められているから。その安全策のためにも、進路というのは大事で、受験勉強は必須だ。
好きなものは我慢をして、勉強をする。それが、正しい道だとされている。

だけど、いざ大人になって働く選択を迫られた時、社会は声を上げて求めるのだ。
「あなただからできること」「あなたらしいこと」「あなたにしかないもの」。
そんなものは、とうの昔に置いてきたのだ。知らぬ間に捨てて、もうここにはないのだ。
大事だったものを我慢して、ここまできたというのに。今更。

自分らしく生きることを、社会はまだ認めてくれていない。
勉強して、それなりの大学に行って、周りが頷くか頷かないくらいの未来設計をして、それなりの企業に就職する。
敷かれたレールを歩くことを良いとは言ってくれないのに、社会人になってみると、急にはみ出すことが正義みたいになる。突出したなにかを持ち、何者かになることが大事みたいな、この風潮。
生きるって、難しすぎる。疲れちまうぜ。

あの給食の時間ももちろんだけれど。
テストの平均点って、なんの意味があったんだろう。読書のノルマとか、漢字の読み書き回数とか、偏差値だとか。
目に見える数字で戦うことを強要されてきて、決められたもので優劣が決められる世界にいたのに、働き始めて急に「自分らしさ」を求めるなんて、どうかしている。
個性を大切にって言われるたびに、平等に殺されたいつかの「自分らしさ」が泣いている気がしてならない。
「正しさ」に殺されたあの夢とか、あの希望とか。それを仕事にする道がたとえ険しい道だったとしても。
それでもそれがきっと「自分らしさ」だったんだろう。それを極めていたのなら、今感じるものは少し違うのかもしれない。

同じ環境で、同じ時間に同じものを食べ、同じ曲だけを聞き、同じ人とだけ同じ会話をする。
そんなふうに、用意されたシナリオを完璧になぞり繰り返せば、人間が捻くれたりこじれたりすることはないのかもしれない。
徹底的に管理すれば、人はクローンのように同じように育ったりもするのかも。
だけどそれって、絶対に無理だ。生まれる家庭も出会う人々もある程度違う人同士が集まったら。
そこにはもうきっと「平等」なんてない。

たとえ地球上の人間すべてが同じ顔だったとしても。その顔に対して劣等感を抱くか、優越感に浸るか、育ちの環境で異なってくる。
たとえ同じ額の大金を貰えたとしても、なにに使うかはその人次第だ。
100人いたら、100人それぞれ求めているものが違う。違うのだ。
同じものは、同じなんかじゃないのだ。

個性がわからない大人って、きっと多い。働いてお金を稼いで、明日を生きるのに精一杯の毎日で、自分らしくいることを考えると、終わらない迷路にはまってしまう。
わたしも、そのうちのひとりだ。嫌いな部分や許せる部分がわかってきた反面、本当の意味での「個性」がわからない。
いつだって隣の芝は青い。自分がないものを、誰かは持っている気がしてならないけれど、あの人が持っている何かは、既に自分も持っていたりするのだ。他人がその量で満足しているだけで、自分はそれではまだ足りないということ。
そのラインが違うだけで、なにも持っていない人などいないのだろう。だけといつも比べて、お腹を空かして、何かを欲しがって、自分がわからなくなる。

同じって、同じじゃない。
平等って、平等じゃない。
自分のものさしは、他人にはあてはまらない。

学校ではそんなことは教えてくれなかったけれど。
その辺をきちんとわかってあげられれば、ちょっと楽になるのかななんて思うのです。
自分より頑張ってないあいつがなんで、とか。自分よりお金持ちのあいつがなんで、とか。
持っているものや持っていないもので、誰かにマウントを取るのは虚しいだけなのかもしれないと、しんみり感じた雨の午後。

そう思ってしまうのは、どこかでそう思ってしまうような扱いを受けたからなんだろうけれど。
誰かと同じ人生なんて歩めないんだから、自分に合った最低限のものモノと量で、シンプルに生きていけたらいい。
自分が欲しいと思うもの、ないと生きていけないもの、あとちょっと貪りたいもの。
無理せず自分の器を知ることが、生きるヒントなのかもしれない。
謳われている平等なんてものに、振り回されてはいけない。

人と比べないと、客観的に「自分らしさ」ってみえないのかもしれないけれど。
他人の人生なんて、小説と同じ。自分にはない架空の物語だって思えば、少し楽になると思う。
もう二度と繰り返せない、今を生きる自分だけのストーリーを歩んでいきたい。そこにあるすべてが個性になりうるのだろうし、自分らしさなんじゃないかと思います。

#エッセイ #就活 #個性


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