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SNSの勧誘に向き合ってみた結果と、割としょうもない自分の話。

記憶ってやつは、不思議だ。

この冒頭は、あまりにもありきたりで、でもなんだかそれっぽい何かだから、修正するのはやめた。最初に浮かんだものは、大体意味がありそうでなくて、やっぱりありそうで。そんな感じでいい。甘ったるくて嘘くさいくらいの言葉選びが楽しい。格好悪いのが、格好良かったりする。ダサいのがちょうどいいのだ。

今日一日、頭の中でミニモニの曲が流れていた。タイトルは忘れた。20年以上前くらいの曲だろう。曲名を調べれば良いのに、歌詞も少しは覚えているのに、調べたら何か大切なものを失う気がしたからやめた。
頭の中でずーっと流れている。仕事中も、ずっと。やたらしつこい。
なのに調べない。これはあえてなのか、本能なのかよく知らない。別に知らなくてもいい、完結。
この曲は、今日のわたしのもの。今日のわたしのテーマソングだったんだ。思い出すことを諦めたら、頭で流れていたBGMがふと消えた。
諦めたら消えるらしい。なんか、あれだな。あれを言語化できない。

幼い頃、誰もいない家でミニモニの何かのアニメを観ていた気がする。誰もいない家で、ただひとり。それ以外の音がない空間でひとり。
海苔を食べていた気がする。それ以外食べ物が手に届かなかったんだろうな。切ない思い出が浮かんでくる。
夜遅くに帰ってくる家族と、たまにそばにいてくれるおばあちゃん。おいてある電子ピアノは、兄のもの。
家に帰るのが嫌で、でも外にいるのも嫌で、無駄にたくさん散歩をした。
歩くのは好き。歩いていれば進むから。それが後ろだとしても、「進んだ」という事実が残るから好き。
田舎の土の道が好きだった。畑が好きだった。やけに広い公園と、アスレチックみたいな公園が好き。プリントが掠れたパンダのビョンビョンする遊具とか。振動がお尻に響くシーソーとか。果物を入れるかごみたいなあの、めちゃくちゃ目が回るキィキィ鳴るまんまるのやつとか。
コンクリートの道には足跡が残らない。残らないように作られてるんだから、良い。東京が嫌いなんて言えるほどトウキョウのことをしらないから、今日も燻ったまま生きている。

具体的には覚えていないものも、実際には何か思い入れがあるから今になって思い出すんだろう。
ふと思い出したのは、初めて幼稚園でピアノを披露したあの日。
あれは確か、ミニモニの曲だった。
兄のピアノをこっそり使って、今でいう耳コピをして、それを幼稚園の帰りの会で披露した。
それが、一番最後のミニモニの記憶。
大人になって思い出したのは、なぜなんだろう。
ミニモニはわたしに何を訴えたいんだろう。

ここまで書いてきたけれど、これはタイトルにまったく関係ありません。
よくぞ読んでくれました。
これはわたしのただの日記です。



何事も、やってみなければ判断できない。
やったこともない奴に、判断する資格なんてない。
というのがわたしのポリシーだから、まずはどんなことでもやってみようと思っている。
というか、やらないくせに想像だけでマルバツつけることだけはしたくない。想像が悪だと言っているのではない。想像することでしか人は分かり合えない。
想像の材料って、極論「経験」だ。

想像するためには、知識が必要。知識から生まれるのが経験。わたしはそう思いながら生きているから、まずはやってみようの精神だ。できることなら、なんでもやりたい。やらせてもらえるなら、なんでもしたい。

時々、人に引かれる。「何してんの!?」って言われる。でも、「あ」って思った時には動いているから、何してるか自分でもわからない。
行動しないと結果はわからないから、考えるよりも先に身体が動く。内向的なくせして、クラウチングスタートと逃げ足だけは早い。なんなんだろう。
経験から産まれるのが感情と語彙力な気がしている。経験でしか人はモノサシを作れない。わからないことに対して、味わったことのないものに対して、人は過剰に評価をしがちだ。

遊び人は果たして「遊び人」なのか。金持ちは本当に「金持ち」なのか。やってみて(下品な意味じゃなく)、なってみなきゃわからない。けれど、全部になるのは難しい。
でも、行動する気力さえあれば、この世界の仕組みなんてものは大体わかる。わからないように情報操作がされているだけだ。
ピラミッドが四角になることがないように。わからないでいることが誰かの利益になるようにできている。そこをどうやって理解していくかで、探ろうとしてぶち破ろうとしていくのかで、生き方が決まるのかもしれない。



わたしは、実際にやってみて感じたことしか基本的に信じない。
やってみてわかったことしか語らない。
そう思った経緯も経験もたくさんあるけど、ここから新しく語るのは野暮ったいからしない。

人間同士の関係は、想像でしかわかりあえないと思う。
見たもの、聞いたもの、口にしたもの。全部が違う人とわかりあうなんて、無理だ。どんなにその人の心に近づけたとしても、本当の意味でわかりあうことなんてきっとできない。自分と似ている人でさえも、無理だ。
だから、想像する。目の前にいる人のことを知るために、今までの経験を振り返って、想像する。
言葉や仕草、表情から、その人のことを知ろうとする。
想像することでしか、人はわかりあえない。会話を重ねても、身体を重ねても、極論他人は他人でしかない。
その他人を知るために、想像力を働かせる。共感も、反抗も、経験からしか生まれない。依存の正体は、想像力の欠如だと思っている。

無理だ。

他人は他人でしかない。わかってほしいとか、わかりたいとか、この世界にない。
自分がつくりあげた他人。触れられない心に少しでも近づくために、人には感情がある。

知りたいは、愛。
伝えたいは、ちょっとエゴ。
人間は面倒くさい。それでいい。



最近、あ。って思ったことを綴ろうと思う。
ここからがやっと本題。

SNSで発信していると、(おそらく)数を打てば当たると思っているライバー事務所から連絡が来る。そもそも、「SNSをちゃんとしよう」って何、って話で前提がトンチンカン。それぞれの事情があると思うから、ちゃんとの定義は曖昧だ。
ある程度発信していってフォロワーさんが増えると、ある時から突然テンプレみたいな勧誘の連絡が来るようになる。ライブ配信とかエッチな勧誘(!?)とか、あれやこれや。来たものに対してはすべて確認するので既読はするけれど、とりあえず読んで必要性を感じなかったら返事は特にしない。わたしにとっては、それは特に心を動かす出来事ではなくて、ああ世の中にはそういう仕事をしている人がいるんだなぁって、それくらい。わたしの知らない世界がまだあるんだなぁって、それくらい。これを生業にしている人がいるんだって、わかるようになった。

でも、ある日突然誰かの何かで見たんだけれど(その人が悪いとかじゃなくて本当にただ見て感化されただけです)、そう言う言うDMをしてくるんじゃねえよ!ライバー事務所の連絡うざい!みたいに怒ってた人がいた。不特定多数に発信して、わたしのことなめとんのか?みたいに怒ってた。

なるほど、となった。そこで怒る人もいるんだなって、異次元に触れた気がした。面白いとかそうじゃなくて。あれ?わたしがされてきたことって、怒るべきことなのかな?ってなった。

……性格が悪いわたしは急に、そこに興味を持ってしまった。
過去の投稿でも書いたけれど。ゴミっていわれたからゴミの気持ちを知りたくて数々のゴミ捨て場に寝転がったり、それがわたし。実情を知らないと、気がすまない性格。sakuです。

「果たして、テンプレみたいな勧誘をしてくる人は本当にクソなのか」ということ。

発信していたらわたしもその類の勧誘が来るわけで、ただ気にしていなくて返事をしていなかっただけで。数打てば当たる戦法に怒る人がいるんだと思って、それにクソだと思う人がいるんだなぁって気づいた。その心理は様々で、想像でしかわからないけれど、勧誘に腹が立つのは「自分じゃなくても良いってわかる」からなんだろうなぁって怒ってる人の心理を想像してみたりする。あなたのここにひかれて、こういう条件で、このギャラでこういう案件をお願いしたい!って詳細を知れたら、怒らないのかなとか思うけど、結局その詳細次第で起こる人は怒るだろうからここに正解はなさそう。

なんて、両者のことを思っている「ふり」をするのは気持ち悪い。だってどっちのこともわたしはどうでもいい。
まず、わざわざ誰かから連絡きた!って報告するのがまず理解できない。企業でもなんでもそうだけれど、怪しいことがあったらまずスクショ、そしてブロック、以上。それだけである。見知らぬ誰かだから良いと思っているのかもだけれど、連絡画面をスクショして発信するのは、まず人としてどうなの?なのがわたしの率直な意見。自分だったら嫌。あっちだって営業でやっているわけだし、それがプライベートだとしてもラインのスクショとか勝手にSNSに載せられたら一気に冷める。スンッてなる。
だけど、実際にわたしも発信をする頻度が増えたことで連絡をいただくことが多いために、なんとなく気になってしまった。

だから。
連絡をいただいた業者さんに、片っ端から連絡をしてみた。

「はじめまして!この度はご連絡ありがとうございます!なぜわたしにご連絡しようと思ったのか教えていただけますか?」と送ってみた。
質問に、質問で返す。
不特定多数だとしても、乱射したとしても、こんなにたくさんのアカウントがある中でわたしを見つけてくれて少なくとも数秒は時間をいただいて、そこにお礼と、なんで?を添えても良いかなと、急に思ってしまった。
そしたら、結構ちゃんと返事をくれた。わたしが返事をしたら、なぜわたしを良いと思ったのかちゃんと説明してくれた。

深くは知らないけれど、最初わたしにそのメッセージを送った人は確かにテンプレだったんだろう。そういう仕事だろうし、想像はできる。
でも、食いつきそうなわたしから返事がきて、改めて投稿を見て良いところを探してくれたんだと思う。わたしのここがどういう風にいいか、ちゃんと返してくれた企業さんが割と多かった。純粋に、お~!ってなった。

その人がわたしに返答をすること。そこに時間があったのがわかる。時間を確かにいただいた。それは、クソではない気がする。
わたしがちょろいのかもしれないけれど、それをしてくれて、伝えてくれて、良いところを見つけようとしてくれたのは素直に嬉しかった。営業でもなんでもいい。所詮世の中はビジネスだ。だからそれでいいと思ってる。

結論、こうかもしれない。
「クソをクソだと定義できるのは、クソに近づいた人だけだ」と。
この定義こそ、まさにクソ。めちゃくちゃに言葉が悪いが、わたしは今回自分でこの経験をしてみて、勧誘をしてくる人をクソだとは思わなくなった。
世の中にはそういう仕事をしているんだ、その先にはこういう対応をしてくる人もいるんだ。それが改めてわかったというだけだ。

何も知らないで勧誘にクソだー!と言う人の気持ちも、なんとなくわかる。
迷惑なDM!とわざわざ晒す人もいるけど、わたしにとっては最初から迷惑ではなくて、単純にこの人はこう言う仕事をしてる人なんだなーってくらいだったから、真実を探って観たくてしてみたこと。果たして本当にクソなのかを知りたくてこうなった。
すごく面倒くさい性格だと思う。でも、経験してわかったから、これ以上疑問に思うことはないと思う。

すごくしょうもない話を、淡々と書いている。
伝えたいことは、よくわからない。書いていても、まじでわからない。何が言いたいんだ?わたし。

ただ、なんか。なんか、疑問を持つことって大事な気がしていて。
出来事に対して受け身なままでいるのって、それ以上がない気がしてしまって、その先を知りたくてやってみたこの行動。
気持ち悪いし暇かよ(笑)ってバカにされそうだけれど、案外いい経験になったからとりあえず書いておこうと思って久しぶりにnoteを開きました。
素敵な文章が溢れる中でどうか埋もれて欲しいと思う一方、出来事に疑問を持って主体性を持つことで新しい世界が見えるかもってことを伝えたい。
SNSのその先には、どんな媒体でも人がいることを想像すると、いろいろ面白い。

経験でしか、人は想像できない。
想像でしか、人はわかりあえない。
行動でしか、人は変われない。

バカみたいなわたしのこの経験が、いつか何かになることを願って。
インフルエンサーでもなんでもない一般人の記録です。



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