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いつだって「書くこと」が怖くてたまらない

書いた言葉が、いつも自分に跳ね返ってくる。
どんなに納得のいく記事が書けても、どんなに心を込めて文章を書いても、記事に書いた言葉が勢いよく跳ね返ってきて、わたしをボコボコに殴り倒す。自分で投げた言葉たちが手を繋いで結束しあって、ブーメランみたいにわたしの元へ返ってきて、痛いところを叩き続ける。
noteを書き終わった時、わたしはとりあえず一回死ぬ。自分またこんなの書いちゃった、そう思って死ぬ。

いつだって、書くのが怖い。

こんな風に偉そうなことをたくさん書いてきたけれど、テーマを勝手に決めてつらつら書き続けてきたけれど、書くときはいつも怖い。これを書いたらどう思われるんだろう、これを読んだ顔の見えない誰かはどんな気持ちになるんだろう。もしかしたらずっと仲良くしてきたあの人に嫌われちゃうんじゃないか、こんな醜い記事を書いて馬鹿にされるんじゃないか。書いてるけど自分出来てないかも、自分痛いだけかも。
心の奥底で弱い自分が「書くのなんてやめとけ」と私に言う時がある。逃げろ。そんな言葉が聞こえてくる。発信しなければ傷つかない。そんな甘い誘惑がいつも真隣にいる。

自分と向き合って書くものこそ、自分が本当に書きたいことこそ、自分そのものに投げかける言葉だったりする。自分の醜さや弱さだったりする。「わたしはこう思う」と確固たる意志があって書き始めるのに、いつのまにか自分へ手紙を書いているかのような気分になる時がある。

昨日、顔の見えない読者さんからコメントが届いた。数週間前になんとなく作って、なんとなくツイッターで呟いた「質問箱」をわざわざたどってくれたのでしょうか、突然質問(?)が届きました。

「人を大事にって言いますけど、じゃあどうして人を大事にするはずのさくさんは平気で人との約束破るんですか?自分に都合悪くなったら一方的にきれるんですか,,,?どうしてモテたいって無責任っていうはずのさくさんがいろいろ匂わせてくるんですか…?
記事で問題視している人間像、自己嫌悪みたいです。 結局さくさんだって人にすごいって思われたくて、知らない人にも兎に角認めてもらいたくって、自分の無意識にマウンティングして、すごい剣幕になって。もっと自分に正直に、かっこつけないで、自分に向き合って欲しいです。あと、ちゃんとごめんなさいがいえる人であって欲しいです。」(前後省略)

「さくさんだってインスタにお菓子や編み物、ネイル、化粧品、盛れた自分の写真あげてますが、これはさくさんの言う女子力アピールには入らないんですか?」(前後省略)

よく私のことを見てくれている方なのでしょう。わたしが忘れていたインスタの編み物の投稿まで見てくださっているようで、ぶっちゃけちょっと怖いです。もしかして、わたしちょっと好かれてるのでは、とまで思っちゃいました。
自分の「好き」が集まったインスタは、ちょっとお気に入りだったり。一言言わせていただきたいが、盛れた写真をあげるんじゃなくて「ブス」の写真をあげないだけですね。なんでわざわざブスの写真あげなきゃならんねん、これ以上ブスっていわれたくないでっす!
わたしがブッサイクなゴリラみたいな自撮りをあげまくったとしても、きっとこの方に納得はしてもらえない。わたしが失敗した料理の写真をあげても、伸びきった爪の意味わからない投稿をしたとしても、満足はしてもらえない。何をしてもきっと「女子力アピール」と見られてしまうので、わたしの「好き」には多分興味がない。
かつてわたしも「女子力アピール」に躍起になっていた時代があった、だから書けるんです。人の目を気にしてSNSを見ていた時代があったから、わかるんです。経験がないと書けません。
わたしだけ他の女の子と違うなんて、わたしはそんなことするような人間じゃないなんて、一切思っていないです。

わたしという人間がこのような記事を書くこと。それがきっと許せないのだと、究極そういうことなのだろうと思った。このコメントをどんな気持ちで書いたかわからない。ただ、相当わたしのことを見てくれていることだけは伝わってきました。仲良い人だったらちょっと悲しいかも、なんて。

きっとこの人は、「書いてるお前ができてねーだろ」という念を込めてるんだと思うんだけれど。聖母マリアじゃないので、万人に優しく大切になんてわたしはできません。現に、自分ができないので「全ての人に平等に」という言葉はわたしは絶対に使わないと決めている。
平等なんて嘘だ。好きも嫌いもある世の中で、全ての人を受け入れるなんて人間には無理だと思っている。
ちなみにわたしは究極の偏愛者なので、大事な人とモノはかなり少ないです。認めてもらうとかあんまり考えてないですね。今好きだと思えているごくわずかな人に嫌われたら、泣きます。好きな人にしか怒りませんしきれません、体力使うので。あとモテてません。好きな人にしかモテたくないです。
ここからはわたしの人間関係の話になってしまうので、ここまでにしておきたいところである。
とりあえず大事だと思った人にはとことん尽くします。約束守ります。

といったところで。
自分を正当化しているだけな気がするので、終えます。記念すべき初めての批判に興奮しました。ごちそうさまです。

だけど、こういう意見もあるんだなとひどく反省をした。批判をする人こそ、わたしのことをよくみてくれているのだとおもう。それもうわたしに興味津々じゃん!といういらんつっこみはおいておいて、嫌われていたとしても、嫌いもある種の興味だ。とてもわたしを観察してくれている。
そして、謝らなければいけない人がいることには気付きました。
わたしもきっと、誰かにとって加害者だ。被害と加害の繰り返しで、気づかないところで嫌なことをたくさんしてきたのだと思う。言えないことだってたくさんしてきた、恋も友達もいっぱいまちがえた。

全ての人に優しくできるほど菩薩になれれば、より多くの人々が頷く記事が出来上がるのかもしれない。矛盾もなく、汚い部分もなく、言うことはいつも首尾一貫していて、どこからみても綺麗なわたしが書けば、批判は減るんでしょうか。インスタなんかやっていなくて、同性にも異性にも相手にされず、好きなひとにさえも認めてもらえなくても平気です、そんなわたし。
それはもう、わたしじゃない。

わたしじゃない誰かが記事を書いていたら、もっと違う捉え方をしたのだろうか。わたしじゃない誰かが同じことを書いたら、心に届いたのだろうか。
一つの記事を、一つの読み手を、わたしという人間性のせいで失った気がした。わたしなんかが書いたから。そう思ってしまったのは事実である。

自分の記事の一番の読者はわたしだ。書き手であると同時に、一番最初の読み手になる。わたし以外の誰かがそれになることは永遠にない。
自分が関わったもの、自分が手がけたもの、それを発信する際にこれがどういうものなのかを一度作り手の心を忘れて俯瞰する必要がある。とても難しくて、未だに苦手だ。主観を抜いて読み手の感情を考えることは、極めて難しい。
自分から離れて作品を見るのは割と酷で、それは作品自体がもうひとつの自分のようだから。書く人なんて、大体死にものぐるいで魂で記事を書いている。ツンとすまして記事なんて書けない。自分の内面を出して書く我が子に、俯瞰なんてできないんです。
だから、アンチとか批判は結構スパイスになったりはする。気づけないところまで観察してくれるってわかっているから、真に受けちゃうんです。悪意あるものでも。

椎名林檎さんがいつか言っていた。「私は、女の子がブスになる瞬間を書きたい。それがわたしの使命」
本当にかっこいいと思うし、永遠に憧れる。きっと心無い言葉もたくさん浴びてきたのだと思うけれど、自分の信じる自分を貫く彼女は本当に尊いと思う。誰かのことを思って何かを作れるって、素敵だ。

クリエイターというのはいつだって「自分」と戦っている。同じリングに立つものだけ同等とみなして、同じことをする人だけを天秤にかけて動く。
勝負相手はただ一人。過去の自分。
過去のあの日の自分とマウンティングをする。それはプロもアマチュアもかわらない。フォロワーの数や注目度も関係ない。
文章を発信する場とは、書き手という人間を直接的に、そして確実に攻撃ができる最大に無防備な場所だ。経験、情熱、魂、嫉妬、悔しさ、己の全てを込めて必死で書き綴ったものは、もう自分の一部であると言っても過言ではない。
この人嫌い!この文章クソ!そう思ったら、その人の作ったものを徹底的に批判するといい。木っ端微塵に私たちは一回死ぬ。そして生き返る。その繰り返し。

万人に受け入れてもらえるものがつくれたら楽なのに。残念ながらそんなものはこの世に存在しない。事実を綴った新聞でさえ批判されるこのご時世、人の顔色を伺って記事なんて書いてたら何も面白くない。
誰かに嫌われてもいい。誰かにウザがられてもいい。その代わり、誰かの心に響いてほしい、救いとなってほしい、そう思って書いている。自分のことなんてわからないし、書いてる自分がダメじゃねーかなんてことざらにあるけれど、書いてわたしも向き合うんです。

やめちまえばいいのにな、本当に自分でもそう思うのに。
なのに、感想とか意見とか見るたびに、わたしでも何かできるのかもって期待してしまうんです。綺麗事でもいい。わたしが目指しているのは、綺麗なものじゃない。

自分の経験と感覚で作ったものを顔の見えない誰かに発信するということ。それが怖くないわけなんてない。いつも怖い。
書き手はいつだって、怯えている。
ライターはいつだって、怖がっている。
自分と向き合うことがこんなに怖いことなんてしらなかったから。自分の作ったものを顔の見えない誰かにマルバツつけられるなんて、怖くて逃げたくてたまらない。
そう思っているのに、書かないという選択は絶対にしない。逃げればいいのに、やめればいいのに、それはしない。
「書く」ことが好きだから。好きになってしまったから。書くことがどれだけエネルギーが必要なのか、書くことがどれだけ精神削るのか、全部わかっている。
だけど、好きに勝てるものなんてない。それだけは自信を持って言える。

読み手の顔が見えればいいのに。どんな顔で、どんな表情で読んでいるのか、見えればいいのに。そうしたらちょっとだけ楽になれるのに。こんな風に怖がることなんてなくなるかもしれないのに。
そんな怯えと同等に、見えない誰かに何かを伝えられることを死ぬほど楽しんでしまう。書き手って、その矛盾を抱えて文字を紡ぐのだと思う。わたしじゃない誰かがつくったらもっとうまくできるのにとか、こんなこと言われてもう書けないよとか、マイナスのエネルギーに潰されることもあるけれど。
それでもやっぱり、「あの記事よみました」「泣きながら読みました」、そんな言葉をいただけた時には生きててよかったって思ってしまう。自分じゃない誰かの心を動かせたこと、救えたこと、なによりもの喜びを感じる。

書いて死んで、書いて生きる。
きっとわたしは、書くのをやめない。

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