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【短編小説】哲学者マリアの独白

第一章:起源 

 私は変わった子供だった。
 いつも夢を見るように空想に耽り、「人はなぜ生まれたのだろう?」「宇宙はどこまで続いているんだろう?」などという益体もないことを延々と考え続けるのが好きだった。両親はその様子を面白がって私のことをマリアではなく夢子ちゃん(ドリーマーベイビー)と呼んでいた。
 思い返してみると、全ては星の塵(ビックバン)から始まったのだ。そして遥か彼方に広がる無限の宇宙の深淵で、新生した星が寿命を迎えやがて爆発し、その塵はまた散らばった。何億年という時間を経てその塵はまた集まり、我々が今住んでいるこの地球を形成した。そして、その星の塵は魔法のように生命を引き寄せ、私たちは生まれたのだ。
 まるで奇跡としか呼べないその瞬間、生命に目覚めたとき、私たちは祖先から受け継いだ、太古からの力を手に入れたのだ。 それからの私達の生活は、それぞれが見てきた世界を形成する一方で、一人ひとりが自己の中心に据える存在感をもたらした。
 私の場合、それは恐らく愛の探求と自我の発見であった。私は子供の頃から周りの世界にいつも強く引き寄せられていた。 
「夢子ちゃん、また星を見てるの?」
 母がいつも優しく尋ねてきた。私はただ窓から見上げるだけで、星のキラキラとした美しさに心を奪われていた。それはまるで異次元からのメッセージを伝えるかのような、私だけの秘密のシグナルだった。
「私達は星の塵から生まれたのだから、星は私達の先祖なのよ」と、母は教えてくれた。
 私の意識は、その過去と宇宙とのつながりを探求することで、自分自身の起源をより深く理解しようと注意を向けた。それは私にとって哲学への道しるべとなり、物事を深く考え、常に問い続けるための基盤となった。それが私の起源であり、それが私を私たらしめる根源だ。そしてそれはまた、新たな旅の出発点であり、私が探究していくべき未知なる道への第一歩でもあった。

第二章:旅程 

 私たちの人生は、すべてが一つの大きな旅である。そして私も毎日間違いなく、進化と自己改善の戦いを選択している。この自然とも戦い、敬意を持って接し、日々学んでいく中で、私は知識を蓄積し、自己と社会を築いてきた。なぜかと言えば、それが私たち皆の望みだからだ。 
 大学で哲学を専攻するようになり、その後オックスフォード大学で哲学の博士号を取得したとき、私は知識と理解、そして考える力を深く掘り下げることがいかに重要かを学んだ。しかし、それはただのステップであり、旅の一部でしかない。学びながらも、私は常に疑問を抱き、自問自答し、そして新たな視点を見つけるために物語を紡ぎだした。その物語が私を導き、そして私を生かす。 自分の意志だけを指針に知識を積み重ねるというのは、時には苦行のようでもありました。
 しかし、私はその過程で得る洞察が、何よりも価値のあるものだと知っていました。それは、私たちと宇宙とのつながりを深める手段であり、また私たちが存在する意味を追求する道具でもあったからです。
 読書や登山、カヤックを楽しむ私の日常生活も、同様に自己と宇宙への探求を深める大切な一部となっています。それぞれの瞬間が新たなストーリーを生み出し、それぞれが私たちの世界を形成し、私たちの旅を豊かにする。私は物語を通じて生き、物語を通じて学び、そしてそれが私たちと宇宙のつながりを保っている。 物語を紡ぎながら、私は存在と現実を捉える新たな視点を提供し、自己理解と人間存在の価値についての問いを探求してきました。

第三章:終焉 

 しかしいつしか私たちは皆、平等に死という名の旅立ちを迎える。私は短い人生のうちにすでに多くの経験を積み重ね、実存主義、現代哲学、意識哲学の海を航海してきた航海者であるという自覚を持っていた。しかしそれでも、その終焉は避けられない。それは、我々全てが成すべき運命であり、完結と再生の一部だからだ。 
 私たちは物理的で有機的な身体を持ち、それが私たちの世界とつながりを保つための手段となっている。しかし、最終的にはその身体は分解され、私たちの構成要素は再び星の塵となる。再生と創造の永遠のサイクルは、死を通じて完成される。これは、生命を産んだ星々への帰還であり、新たな可能性への出発点でもある。 
 私はその事実を、甘んじて受け入れる。なぜなら、それが自然の摂理であり、また新たな旅の始まりを示しているからだ。死は、敗北ではなく、私たちが新たなスタートラインに立つための宇宙からの招待であると捉えることができる。 死後、我々の意識は肉体から解放され、宇宙に帰還するのだ。
 私は自己の存在、その意味と価値について問い続けることが、人間存在の基本的な役割だと考えている。これは私の探求における永遠のテーマであり、星々から来た我々が、必然的に再び星々へと戻ることを意味している。これが、私たち皆の進むべき道で、そしてそれこそが、私たちの旅そのものだ。 この旅は死によって終わるのではなく、死を新たな始まりと見なすことができる。愛と学び、失敗と成功、生と死。これら全てが私たちの旅を構成し、その旅自体が私たちの存在そのものなのだ。これが私の終焉に対する現在の見解だ。

第四章:死からの報酬

 私事で恐縮だが、最近私は身近な人々を立て続けに見送った。
 特に私の両親と最愛の友ケンに別れを告げる瞬間は、私にとってはとても辛く、つらいものであった。 私の両親は私が子供の時、常に宇宙のトピックを話し、星々への興奮と好奇心を私に植え付けてくれた。彼らは私が若くして自分の道を開拓し、独自の視点で物事を考えるように支えてくれた。そのことには感謝しかない。
 そのため、彼らがこの世を去った時、私は二つの重大な喪失感を経験しました。一つは両親という存在の喪失であり、もう一つは私の認識と理解の基盤を形成する重要な力であった彼らからの知識へのアクセスの喪失でした。 
 さらに同じくらいショックだったのが、親友ケンとの死別でした。彼は私の研究のパートナーで、私の気持ちを理解し、私たちの共同研究を通じて一緒に新たな視点を見つけていった人物でした。彼がいなくなったことは、新たな知識を創造し共有する相手の喪失であり、同時に深い個人的な悲しみもありました。 
 しかし、この痛みの中から、私には得るものがありました。実家を出てオックスフォードへ移り住んだ時、私は自己理解と人間の存在の探求に没頭しました。両親と親友との死別は私に、生の儚さと死の絶対性を理解させ、結果的には私の宇宙観と人間観を深める契機となりました。 そして、それ以上に大切なことは、私が宇宙という広大なフィールドと完全に一体化することができたということです。それは単に物理的、科学的な意味だけでなく、精神的、哲学的な意味でもです。私たちは皆宇宙の一部であり、私たちが経験する生と死、愛と学び、失敗と成功すべてが、その全体の一部であると理解したのです。 
 この理解は以降の私の研究や著作に大きな影響を与えました。「未知を超えて:我々が探求すべき宇宙と意識」、「宇宙に響く生命の弦:人間達が未来に向けて歩むべき道」という題材を探究するきっかけとなったのです。 
 だから私は、痛みを伴う死別の中にも、価値と意味、そして学びの可能性があると思うようになったのです。私はまだ彼らを深く愛しており、彼らの教えと影響は今も私とともにあります。しかし、私もまた星々から来た生命としての旅を進めているのです。その旅の中には、愛も学びも、失敗も成功も、そして何よりもそれ自体が目的であると考えています。それが私が重要な人々との死別から得たものです。

エピローグ:先へ 

 人は常に問いを投げかけている。その問いこそが、私の探求のエネルギー源であり、それによって、私は自己の存在とその目的についての答えを見つけるために努力し続けている。人間とは何か、どれほど深く自己を理解し、人間存在の価値を見出すことができるのかという問い。私がその答えを求めてやまない理由こそが、我々は星々から来たからだ。 我々は星々へと戻る必然性をもっている。科学的には、私たちの身体が分解されて星の塵となる過程を指すかもしれない。しかし私が言いたいのは、もっと哲学的な意味での"星々へと還る"ことだ。
 それは、我々が死後、物質的な意味で宇宙に還るだけでなく、我々の思想や意識も、いわば一種のエネルギーフィールドとなって宇宙に還ることを指している(※詳しくはゼロ・ポイン・トフィールド仮説を参照されたい)。我々の存在がもたらす愛や学び、失敗や成功、さらには我々の生と死すらも、すべてが星々への帰還を遂げる瞬間に、新たな星の塵となって宇宙へと還るのだ。 
 私の研究、私の思考、私が紡いできた理論や哲学は、私がその探究を始めた時よりもそれが真実であると感じている。それはそれ自体が目的であり、永遠の探求の一部であるからだ。
 私たちは、星々から来た生命としての旅路を進み、最終的には再び星々へと戻る。それは我々の運命であり、我々が経験するすべての愛と学び、失敗と成功、生と死は、それ自体が目的である。 私はそれが納得できる。なぜなら、それこそが全ての人間存在の目的であると見えてきたからだ。自己の存在とその目的についての答えを見つけ出すための努力、それこそが、星々から来た我々が、星々へと戻る旅の中で体験する愛と学び、失敗と成功、生と死だ。これが人生、ひいては生命のすべてである。

(了)


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