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"関心"の手からこぼれ落ちてきた悲しみの破片 (映画『セメントの記憶』鑑賞録)

シリアを訪れた2011年3月から、まもなく8年の歳月が経とうとしている。シリアに思いを寄せ、微力ながらも、シリアについて知ってもらったり、関心をもってもらえるようにと活動しながら、心の底で小さくずっと抱えてきた思い...。

悲しみを比較することはできるのか。

日本でもシリアにまつわるニュースは多少なりとも報道がされているなかで、フォーカスがあたっているのは、戦禍のなかにいる人たち、命からがら国を逃れる「難民」の人たち、未来の見えない難民キャンプの悲痛さ...といったもの。

そのいずれも辛く、苦しく、過酷な状態であることは間違いない。でも「それだけじゃない」といつもどこか胸がザワザワしていた。

3/23(土)に公開になるドキュメンタリー映画『セメントの記憶』は、そのザワザワを掬い上げてくれるような気がした。

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そもそも私がシリアに思いを寄せ続けているのは、自分が直接出会い、あたたかな時間と思い出を共有している友人たちがいるから。そのなかで、今消息がわかる人たちの多くは、「難民」とは違う形で他国(日本も含め)に逃れて暮らしている。

私のアラビア語のチューターをしてくれた同世代の女性は、陸路伝いでドイツに逃れ、今もドイツの田舎町で暮らしている。

彼らは、ニュースになるような「悲惨」な状態と比較したら、"めぐまれて"いるのかもしれない。でも、だからといって、悲しみがないわけじゃない。傷がないわけじゃない。

内戦状態が悪化するより前に、イギリスへ大学院留学したシリア人の親友は、今はイギリスで出会った人と結婚し、子どもも生まれて、夫婦で事業を営んでいる。でも、数人の親族は戦禍で命を落とし、シリア国内に残っている両親には容易に会うことは叶わず、状況がひどかった時には、電話もほとんど通じず、いつも不安そうだった。

勉強熱心な親友(写真右)。イギリスの大学院では文学を学び、シリア内戦をテーマにした演劇も公演していた。

彼ら彼女たちのように、「ふつうの暮らし」を新しい土地で築いっていっている人たちの姿は、これまでほとんど焦点を当てられてこなかったように思う。

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今回の映画『セメントの記憶』は、シリアを逃れ、隣国レバノンの首都ベイルートで高層ビル建設のために働く労働者たちを追ったドキュメンタリーだ。シリア国内に比べたら、平和で、差し迫った死の危機はなく、仕事もあって、生きていくことができる。それは戦禍で惑う人たちと比べたら「まだマシ」な環境で、一般的には注目に値しないのかもしれない。

でも、この作品を見たらきっと分かるはずだ。彼らの暮らしが、前向きに「生きる」感覚ではなく、ただ「生存している」、未来が見えないものであることを。そして、彼らにとってトラウマもあるセメントの建物を、いま建設せざるをえない状況にいる皮肉さを...。

決して言葉では多くを説明せず、代わりに、まるで誰かの記憶の中に入り込んだように、現実と"夢"を行き来するような描き方をしている、新感覚のこの"ドキュメンタリー"は、だからこそ一層、観るものに「あなたは何を感じとるか」と問われるような気もする。

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そしてこの作品を見ながらハッとしたのは、8年という歳月の大きさだ。私がシリアを訪れた2011年に小学6年生ぐらいだった子たちは、今年で成人を迎える。コドモがオトナになるだけの時間が経ったという事実に気後れしそうになる。この8年で、果たしてどれだけのシリアのコドモたちが、未来に希望を抱けるオトナになれたのだろう?そしてどれだけのコドモたちが、今も痛みの記憶のかけらを抱え続けているのだろう...と。

シリア・アレッポに到着した初日、みんなでマーケットを歩いていた時に、シリア人のおじさんが、子どもをばっと託して(笑)一緒に記念撮影して去っていった(笑)ときの一枚。この子ももう立派な青年になっているはず。無事にちゃんと生きていれば...。

2012年に訪れたヨルダンのジルバーブ屋さんで働いていた青年もお母さんがシリア人だった。このお店のオーナーはもともと機械系の仕事をしていたものの、ヨルダンに避難してからファッション系の仕事に転換。5店舗展開し、お店でシリアからの避難民を雇っていた。世界各地に散らばるシリアの人たちのひとりひとりに、異なるストーリーと記憶があるはず。

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そしてもうひとつ、シリアと向き合う中でいつも感じていることを、『セメントの記憶』は示唆している。それは

歴史は繰り返す

ということ。シリアでこの8年で起きてきたことは、シリアが特殊だったからではないと私は思っている。細かい現象は異なれども、同じような紛糾は、これまでにも様々な場所で起きてきたし、本作の舞台であるレバノンも然りだ。そして、それはすなわち、未来に同じようなことがまた別の場所で起きる可能性があることも意味する。

だから本作は、レバノンの映画であり、シリアの映画であり、でも、そうした国の枠をとっぱらった視点からも、見つめるべき作品なのではないかと思う。

シリア滞在中、日本では感じないような「平和」を感じる瞬間が何度かあった。内戦前は、バックパッカーに人気の国だったとも言われている。それくらい穏やかで、心あたたまる場所でも、”ドンデン返し”が起きることはあるのだと思う。

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映画『セメントの記憶』は3月23日(土)ユーロスペースほかで公開。公開のタイミングではどうやら監督も来日する模様。ぜひ劇場の大きな画面で、記憶の海の中へ潜りに行ってください。

https://www.sunny-film.com/cementkioku


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