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いつか見た風景 101

「フレームの中の私」


 聞こえているか私の声が、見えているか私の姿が、届いているか私の思いが、気づいているか私の本心が。ならばここで質問だ。私は一体何者なんだ?

               スコッチィ・タカオ・ヒマナンデス


「フレームが全てを際立たせる」「ところで私は何処にいるのよ?」


 目に涙が浮かび、心臓がキュンとなった。

 去年の暮れに私の松果体が覚醒して直ぐに気づいた事がある。ニック・ボストロムのシュミレーション仮説はほぼほぼ正しかったという事だ。高次元の何者かの悪意に満ちた悪戯によって構築された何らかの日常、つまり人工意識を備えた個体群を含むシュミレーション空間の中に私は生息している。そうだな、たぶんマトリックスの世界の隣町の端っこら辺りに。そしてらどうやらその何らかの日常は全て私の誇張された偏見や早合点、勘違いや余分な知識から生み落とされた世界であり、私を取り巻くご近所の住人たちも私の歪んだ人生をディープラーンニングした生成AI を搭載した知人友人型ロボットに他ならないようなのだ。

 危惧はしていない。悲観も絶望も。ただ時折り黄昏れてしまうだけだ。黄昏時の黄昏は白日夢を誘発する。誰かが言っていた。目覚めながら見る夢は自己を開放するそうだから心配はいらないだろう。私の日常を決定する幾つもの変数が微妙に変化し、相互に作用してウサギの穴に迷い込む時間がやって来た。そう不思議の国のアリス症候群によく似たアレだよ。自分の体が大きくなったり小さくなったり、時計が突然お喋りしたりコーヒーカップが踊ったりするアレだよ。

 目に涙が浮かび、心臓がキュンとなった。

「老いとは闘争と逃走の繰り返しだ」と気づいて韻を踏んで叫んでみた。日々の闘争、日々から逃走、退化する記憶の対価と向き合う、日々の闘争、日々から逃走、廊下滑って老化に惑う、介護疲れの施設の会合、開悟した私が会合に乱入、老化を濾過せにゃ闘争と逃走の繰り返し、あゝ闘争と逃走の繰り返し……。


「覚醒するに必要な砂糖はたったの一個よ」


「目に涙が浮かんで、心臓がキュンとなったんですって?」と彼女がさりげなく聞いて来た。私が頼んだ買い物をリビングのテーブルの上に並べながら。私のお気に入りの金曜日のヘルパーさんとの年明け早々の会話が始まろうとしている。

 カカオ72%のチョコレートに徳用の入れ歯洗浄剤、それからちょっとスパイシーでシトラスの香りのついた麦焼酎。最近俄かに加わった私のお気に入りを彼女は丁寧に買い物袋から取り出した。誰のお勧めだったかは思い出せないけど、惣菜コーナーの焼きししゃもや手頃な値段のメバチマグロの刺身だってコイツと一緒に口にするとちょっと贅沢な香りが脳内に広がったりするんだよ。気のせいなのは分かってるさ。だけど今の私にはこの「気のせい」って奴に身を委ねる事が何より大事な事だからね。

「お正月にお孫さんたちが来て昔のアルバムで盛り上がったって…」と彼女が私の顔色を伺いながら続けた。きっと私の息子を名乗るあの怪しい男からテキトーな話でも吹き込まれたのだろう。懐かしくて目に涙が浮かんだんじゃない。何かを思い出して心臓がキュンとなった訳じゃないさ。そうじゃないから、そうじゃなかったから目に涙が浮かんで、心臓がキュンとなったんだよ。だけど口にしたら皆んなが盛り上がっちゃったからさ、だから何度も何度も言葉にしてみただけなんだよ。目に涙が浮かんで心臓がキュンとしたってね。


「黙って去らないで私の記憶から」


「写真っていいですよね、いつまでも残るから、その時の思い出が…」
「そうだね、思い出せなくても、思い出には変わりないだろうからね」
「そうだ、写真撮りましょうよ、一緒に、今、スマホで撮りましょう」
「そうだね、思い出せなくても、思い出には変わりないだろうからね」

 テーブルの上を少し片付けて彼女が私の隣に座ってスマホを取り出し肩を寄せて来た。笑って、もっと笑ってと彼女が笑って催促する。私の歪んだ笑顔がスマホのフレームの中で揺れ始めると、目に涙が浮かび心臓がキュンとなった。



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