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無師直感流哲学の『達人』の証明

『達人』について議論する際、一般的な哲学者が最初に直面する問題は『達人の定義とは何か?』という疑問である。哲学という抽象概念を扱う領域(この文脈では分野の意)では、何をもって達人とするかが領域によって異なり、特に主観性が強く解釈が分かれる哲学の世界では合意形成が一層困難である。哲学的な観点からは、『達人』に一般的な基準や測定可能な指標は存在せず、誰を達人とするかは主観的な評価に頼ることになる。このように不確かな状態で哲学対話を進めると、哲学者全員が『それはあなたの主観ですね』となり、達人の定義を固めるのに何百年もかかる可能性があるのが哲学の世界である。 #無師直感流哲学 では、このような全ての哲学者を軽んじるかのような発言で哲学的議論を掘り下げることが、 #トリックスター 的な #風刺 の手法となる。

#達人 』には武術の達人、芸術の達人、奇術の達人など、さまざまな分野があるため、『哲学の達人とは何か』という問いをさらに絞り込んでも、 #哲学 は歴史、 #倫理学 #論理学 #存在論 など様々な領域を含んでおり、全領域において達人レベルの知識を持つことは不可能である。従って『現代の哲学界に哲学の達人は存在しない』という #短絡的な結論 に至るのが、さらなる風刺である。

 一般的に達人とされるためには、既存の知識や理論に精通するだけでなく、新たな洞察や理論を開発し哲学に貢献することが重要な要素である。然し、これらの貢献も #主観的 な評価に左右されがちで、広く認知されるまでには時間がかかるため、現代に哲学の達人は存在しないという主張が、さらに風刺を深める。

 哲学界では同僚や他の専門家からの評価が重要であるが、この評価は主観的であり、学派や理論的立場の違いによって大きく変わる。哲学の達人と認められるためには広範囲なコミュニティからの支持が必要であるが、これを得ることは容易ではない。学術的業績、公開講演、出版物を通じて公的に認知されることも達人とみなされるための要素ではある。ところが、これらの活動が専門知識の深さや範囲を正確に反映しているわけではないため、公的な認知だけでは達人の証明とはならない。これは、近年著名な哲学者として知られる #ニック・ボストロム #マルクス・ガブリエル 、並びに彼らの主張の意味も理解できずに、彼らを絶賛しているマスメディアや視聴者に対する風刺である。

 哲学的な議論や理論は、その性質上、解釈が分かれがちであり、同一の理論にも支持者と批判者が存在する。『達人の証明』においては、これらの主張の妥当性を検証するのに数千年を費やしても、哲学的議論は終息せず、『自由とは何か』といった極めて単純明快な答えさえ出せない哲学方法論及び方法論的懐疑主義に対する風刺の一撃である。

 無師直感流哲学の科学的実証主義では、このような問題は発生し得ない。『批評家への序章:梅崎幸吉を論ずるための心構え(五)』では、 #梅崎幸吉 の『これが戦国時代のような世であれば首が飛ぶ』『しつこく聞くので「やかましい!!」と怒鳴りつけた』と書かれた記事へのリンクにより、『批評の邪魔をするな!』という『 #結界 』を張っている。この結界の有効性は、まだ誰もコメントを書き込んでいないことから、その効果が示唆される。

 次に『哲学無用の『虚』によるトリックスター武術式展開』では、敢えて記事のタイトルに『批評家への序章』を付けていないことが、記事中で説明してある『虚を創り出す』罠である。記事内では『 #虚 』『 #虚無 』『 #虚無空間 』『 #領域 』『 #領域展開 』と手の内を晒しているが、この記事のコメント欄が狭義での『 #領域 (ゾーン)』である。

 この『領域』に踏み込めるのは、本来は梅崎幸吉と武智倫太郎のみである。この場合、梅崎批評ではなく、 #哲学対話 として #批評 とは異なる角度から梅崎の芸術や哲学を探索する貴重な機会である。その領域内に的外れなコメントが残されていたが、このコメントこそが『領域』が機能している証左である。

 コメント欄には『知性が溢れていることに感銘を受けましたが、コメント欄で梅崎先生とお互いに同じ地平線で共鳴なさりながら、リスペクトし合いながら交流なされているのにもっともっと感動しました😊🌹🌹🌹』と書かれていた。このコメントが如何に的外れであるかを指摘すると同時に、『領域』実証実験の有効性を証明してくれたコメント者に感謝する。

 このコメントが的外れであるのは『くどいようだが、批評で最も重要なのは、客観的な立場での批評である』という点にある。共鳴しているという発言は、批評が #中立的な立場 ではないという意味であり、批評家ならびに批評対象の価値を0にしているに等しいコメントである。

中立的な立場の重要性に関する記事

 この的外れな発言を引き出すことにより、改めて武智倫太郎の梅崎幸吉批評が、客観的な立場に基づく批評であることを浮き彫りにする結果となっている。これが『虚を創り』出して作った『領域』の効果である。手の内を晒してそれでもなお『領域』に引き込むのが無師直感流哲学の #達人技 である。

#武智倫太郎

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