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「ウェブ」と「アプリ」では解けない問題について

ウェブとアプリのプロダクトマネジャーを経験する中で、どうも「ウェブ」と「アプリ」という表現体系・ユーザー体験だけでは、不動産のような非対称のある(ステークホルダー間に情報や認知の乖離の大きい。つまり馴染みのない)情報を扱うには、どうにも不十分に感じました。そして、もしウェブでもアプリでもない、第三のパターンがあったとしたら、(不動産に限らず、医療などの)馴染みのない情報を人はもっとうまく扱えるようになるのでは、と考えています。


「ウェブ」という体験

わたしにとってウェブは「自分が欲しいものが見つかる外の空間」です。


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こういうことが知りたいんだ。これは売っているのかな。

ウェブで自分が欲しいものを見つけるためには、それを言語化し、検索というかたちで広大なウェブに問い合わせる必要があります。この検索にもっとも応答できるものであるかどうかで、ウェブの世界で有益かどうか(よいユーザー体験かどうか)が決まります。「初めにことばがあった」ではないですが、ウェブは、ことばなしには始まりません。写真を撮ったものを問い合わせることもできるようになってきていますが、やはり被写体をことばに変換し、その後問い合わせているのに変わりはありません。


ことばが失敗してしまっている時、ウェブはとても不都合です。

たとえば「リフォーム」ということばがあります。

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リフォームは、服の仕立て直しや家の改造を指します。

〘名〙 (reform)⸨レフォーム⸩ 手を入れて改良すること。作り直すこと。多く、洋服の仕立直し、建物の改装などにいう。
※嚼氷冷語(1899)〈内田魯庵〉「明治の文学がレフォームされて追々進歩して来たは」

(出典 精選版 日本国語大辞典。コトバンクより

わたしがいままで考えてきたのは家のリフォームでしたが、水道修理からトイレ交換、はたまた基礎以外を全部交換する工事まですべてが「リフォーム」です。
しかし、その最適な探し方は、その規模によって大きく異なります。
単にトイレを交換するのが得意な業者もいれば、フルリフォームが得意な会社もあります。例えばトイレ交換で重要になるのは、設備仕入れ交渉力や水道管についての知識ですが、フルリフォームの場合は、意匠や施主とのプラン合意のコミュニケーション力が重要になります。

ことばがもっと適切に細分化されていれば、雑に1つのワードからも最適なさばきができますが、ことばの範囲が大きいので、適切なウェブサイトを提供するのが難しいのです(この課題感からか、住宅設備メーカーのTOTOは「リモデル」ということばを普及させようとしています)。「リフォーム」ということばにもっとも応えるサイトがあるとするならば、水道故障の修理から大規模リフォームまで全てのリフォームに対しての情報を集約したサイトになるでしょう。それはまるで家探しの際に「住まい」と検索する人のためのサイトのようなものです。同じことばにたくさんのインテント(意図)が詰め込まれているため、情報設計の難易度がものすごく高まってしまいます。なによりこのような巨大なサイトが必要になるほどエコロジーでないことはありません。

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「リフォーム」で検索しても服のリフォームは出てこない。出てくるのは、広告費を払える高額なフルリフォーム。


このように、ユーザーがやりたいことに適切なことばがあり、ユーザーがやりたいことがわかっているのが、ウェブのルールです。

しかし、例えば不動産の世界は、経済学でいうところの「情報の非対称性」が大きいです。不動産は、賃貸でも数回、売買に至っては1生涯に1度も経験しない人がいる世界です。そのような不動産は、ユーザーに適切な検索するためのことばの持ち合わせが不足しています。

「アプリ」という体験

では、アプリは「情報の非対称性」が大きい対象に有効でしょうか。

アプリとは、私の定義では、「自分の馴染みのものたち」です。

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わたしを虜にしてしまう面白い動画を見る習慣、わたしの資産を確認する習慣。わたしを構成する馴染みのことがアプリというかたちで並んでいます。「ウェブで探す」という馴染みの行為もまた、アプリになるでしょう。


日々行うものであればよいのですが、不動産探しを習慣にしている人(間取り好きや不動産好きにはその様なニーズがあるでしょう)を除けばアプリには親和性がありません。
食べたことのない植物のように、不動産はよくわからないものなので、私のなじみのものではないのです。

このように、「自分はやったことがないがそれに取り組みたい、あるいは取り組まざるを得ないこと」に適しているITが、わたしのスマートフォンには入っていません。

ウェブでもアプリでもない何か

かつてのコンピュータは、ソフトウェアの習熟になれておらず、ソフトウェアやOSの初期設定を行うためのウィザードという機能がありました。まるで魔法使いのように、質問に答えていくだけで自分に必要なものが手に入るのです。

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Windows95のセットアップウィザード(出典:OS博物館

ウィザードの特徴は、情報そのものを提示するだけでなく、情報を学習していく過程を提示します。学ぶことと目的を果たすことが同時に行われるのです。かつてのウィザードは、まだ使ったことのないソフトウェアのためのものでしたが、いまわたしたちが求めているのは現実世界の課題のためのウィザードです。学び方には型があり、情報そのものは馴染みがなくとも、その型に馴染んでしまえば、抵抗感少なく受け入れることができるでしょう。

しかし、ウィザードのようなウェブアプリがあってもSEOコンテンツとしては上にあがることは難しいでしょう。ウィザードがもつノウハウがことばとしてサイトにちりばめてあったとしても、そのことばをユーザーは知らないからです。アプリがあったとしても、その良さを友人から伝えられることはあまり期待できません。情報の非対称性の高いできごとは、発生があまり多くなく、その経験を友人に話すことも多くありません(例えば、離婚時の不動産売却の体験をソーシャルメディアに事細かに書くのは、なぜやるべきなのかよくわからない、かつ、とても骨が折れる殊勝なふるまいです)。

SEO・SEMというウェブの世界のグロース方法にも、バイラルというアプリの世界のグロース方法にも、ウィザードは適していないのです。

もちろん、「ウィザード」的な体験を実現するため、LINEのようなコミュニケーションプラットフォームを活用して、人とウェブ、人とアプリを組み合わせた事例が生まれつつあります。
あるいは、治療用アプリ(日本における先駆け CureAppのプロダクトコンセプトが参考になります)、デジタルセラピューティクスは、医師がアプリを処方し、病気の治療方法を伝えていくという意味で、ウィザード的体験だといえるでしょう。グロースの方法についても、いかに適用される保険点数が高いかによって医師の採択が決まるため、従来のユーザーグロースのノウハウが不要になります。

また、リクルートのスタディサプリは、受験勉強というゴールに対して取り組む学校という現場があるからこそ機能する学び方のアプリです。学校や受験制度があるからこそ、学習行為は馴染みのことになっています。

医師の存在や受験制度の存在が、馴染みのないことを馴染むように人に仕向けます。

しかし、このようにわざわざ人が仕向けないといけないというのは、ウェブとアプリという手段しか提供していないOSの怠慢、と考えることもできるのではないでしょうか。
前述の通り、ウェブとアプリにはそれぞれグロースのルールがあり、ウェブとアプリの世界の中で実現しようとした途端にその世界のルールに飲み込まれてしまい途端にうまくいかなくなってしまうのです。そして、共通の学び方の型が作られてしまえば、それに則るかたちでだれしもが学びつつ、目的を達成することができます。

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だからこそ、もしかしたらOSレイヤー、あるいはデバイスレイヤーからの再設計が必要なのかもしれません。自分がやったことがないことに取り組もうと思ったら、どんなことばが必要なのかを理解でき、やったらどんな結果になるのかをありありと体験で伝えてくれるような存在。「なんかおもしろいことを見つけてくる友達」のような存在にITがどうやったらなれるのか。映画やドラマが自分とは違う生き様を追体験できる存在であると同時に、自分の思い込みを助長し、実際の苦難やリアリティを覆い隠す存在であることをITはどのように乗り越えていくのでしょうか。

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それはユーザーの知識をふまえ動的に変わっていくホログラムなのかもしれませんし、日々色や間取りが変わる不思議な家のような存在なのかもしれません。週替わりで入れ替わる飼い犬かもしれませんし、ドラえもんに出てくるような、レンタルできる「親」のような存在なのかもしれません。あるいは、テレビをひらいたら飛び込んでくる動画サービスのリコメンデーションがもっとも近い存在なのかもしれません。わたしは、ITを前提とした住まい(「スマートハウス」ではない何か)にその可能性を感じています。

まえに書いたUX地政学についての試論において、国産のUXが試される領域とはまさにこのレイヤーからのウィザードを構築する際に発揮されるUXだと考えることもできます。

拙訳『行動を変えるデザイン』とは、まさに馴染みのないものを馴染みのあるものにする、そのための方法論です。その中に紹介される事例では、企業の福利厚生(貯金できるためのアプリ・ハローウォレット)や、流行りの新製品(運動を促すフィットビット)というかたちで、わたしたちに働きかけを行っています。そうなると、社会的規範やマスコミュニケーションのような、ITが解体してきた力こそが、まさに馴染みないものを馴染みあるものへと変える力のようにも思えます。


みなさんがイメージする、ウェブでもアプリでもない存在について、ぜひ私に教えてもらえたら嬉しいです。



いくつかの(自分による)反論・議論について

ウェブは「情報の非対称性」に限界があるのは本当なのか。ユーザーは「不動産 探し方」のような検索をするのではないか。

そう思われる方もいるでしょう。わたしはそれは半分正しく、半分間違っていると思います。「百聞は一見に如かず」はそのヴァリアントとして「百見は一考に如かず」「百考は一行に如かず」とも言いますが、検索して書かれたノウハウで学べるほど人間は賢くないのではないでしょうか。それは、取り扱い説明書を読んで電子機器を使えといっているようなものです。取り扱い説明書がなくても使えるものがどんどん溢れている今日に高尚さを求めるべきでしょうか。おそらくそれは最高のユーザー体験ではないはずです。

ただし、わたしは「学び」の価値を否定するわけではありません。自然に学べるほど世の中は甘くないのです。学べる人は学んだ分だけその果実を手にすることができます。不動産もまた、知るものはそうでないものに比べ、より多くを手にするものでしょう。そしてその学びは、検索で上位に出てくるハウツー記事を読むだけでは手にはいらないはずです。

マーケティングオートメーションは「人+システム」でウィザード を実現しているのではないか

マーケティングオートメーション(MA)は、リード・ナーチャリングのような態度変容の概念を持ち合わせています。セールス担当者がおり、その担当者を支援するシステムであるMAは、人を介して非対称性の高い情報を伝達するツールになっているとも言えます。モバイルが持ち合わせている、電話・SMS、あるいは、メールやコミュニケーションツール、SNSといった機能が、その伝達手段になっています。しかし、これらは自分の馴染みであると思っていた世界に侵食してくるため、行い方を間違えると、同意取得した範囲を超えた過度なマーケティングやスパムメールのような振る舞いになってしまう可能性もあります。馴染みのものしかない世界に土足で踏み込んでくるのです。わたしが思っている課題は、いまのITの世界には縁側のような空間が想定されていないということです。SNSがたとえそのような存在だったとしても、ウェブやアプリというかたちでそれが表現されている限り、わたしたちの期待は、その表現体系に依存しています。いうなれば、そうありたいと思う状態を実現している人のスマホを借りるような、そんな体験が必要なのではないでしょうか。

Apple Storeは、現実界のウィザード?

Apple製品の使い方をレクチャーするApple Storeのプログラムは、人を介したウィザードの役割を果たしているとも言えるでしょう。上述の治療用アプリがクリニックを治療用アプリのApple Storeのような位置づけに変えるように、オンラインで完結できる人以外に対しては、獲得したい習慣のためのストアが必要になるかもしれません。

しかし、こと不動産を考えてみた時、いきなり不動産屋に足を運ぶ行動は一般的ではありません。まず素人ながらに物件を検索するのです。物件情報が均質化し、近場の不動産屋を選ぶメリットがほとんどなくなっていることが考えられます。この場合、ウェブもストアも有効ではない、ということになります。SUUMOや不動産ディベロッパーが運営するカウンターという業態もあります。わたしが考えたい、ウェブでもアプリでもないもの、はこのようなリアルな場とは相補的な関係にあるといえます。Apple Storeが限られた場所にしかないように、津々浦々で学びを享受するのは難しいのです。しかし、たとえば、コンビニのような空間が学びのStoreになっていくような世界が待っているのかもしれません。

それは機械の限界なのではないか

ウェブでもアプリでもない何か、こそ、人間に残された、人間のための、人間らしい仕事である。そう考えることができるかもしれません。しかし、ビジネスの野心は「人間らしさ」を労働集約的と捉え、非連続的な成長の敵とみなすでしょう。我々の飽き性な感覚はその営みをクソどうでもいい仕事とみなし始めるかもしれません。この思考の癖こそが、ウェブでもアプリでもないものを生み出す者を億万長者へと変えるのではないでしょうか。


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