見出し画像

【読書感想文】限りなく透明に近いブルー_1

はじめに

こうして俺が読書感想文という体を取ったのは、書評の形態を取る事で、これから語ろうとする図書に孕む多くの要素を、この記事で網羅して語らなければならない、また、そうして語られた指摘がクリティカルなものでなければないないと言う強迫観念に囚われてしまうために、筆が進まなくなることを避けたとき、読書感想文が多くは学生によって書かれているという特質から、一種のプロフェッショナル思考なその観念を退けることができるためである。よって、ここで語られることは、俺が既に批評や評論に求められる形態と内容の充実度や整合性を約束する責任から逃れた上で書かれたことであることを了承していただきたい。しかし、一方で、可読性を得るために、通常、原稿用紙で行われる読書感想文では不可能な記述の方法をnoteという媒体を都合よく利用することで取ることも許してほしい。また、こういった前置きも俺のもつ上記のような強迫観念から来ていることであり、多くの閲覧者が俺の感想文の形式にそれほどこだわっていないこと、充足的な内容を期待していないことは理解している。

『限りなく透明に近いブルー』

小説は序盤、中盤とどこへ向かうでもないリュウたちの退廃的で、性や暴力、薬物に包まれた日常を縷々として書いている。リュウの視点から描写されていく世界は、よくこの小説に言及されるような“グロいもの”ばかりを取り上げない。曲線の流れが美しい足から、虫の這うキッチンまで、リュウが見たものの中からクローズアップされ、ロングショットされ、と、リュウ本人の無意識で無差別な、純粋な興味によってのみ選択され、描かれてゆく。徹底してリュウ視点を描き切ったために、俺はリュウが見た世界そのままを追体験する形になり、読んでいて自由が利かず、普段、目を伏せるようなものも、まるで、『時計仕掛けのオレンジ』で主人公が更生のために無理矢理、残虐的な映像を見させられたように、“見せつけ”られる。それは、とても気分の悪いもので、俺は読み進めていく度にムカムカしていった。そして、クライマックスでリュウは発狂する。読後は、リュウの発狂に、今までリュウを通して見てきたものによって生じた感情を預けることで不思議と解放感を得た。しかし、リュウはどうして発狂するまで、見ることに固執し、そのあまり薬物によって、開かれた感覚まで求めたのだろうか。それは、終盤で車を走らせながら、リリーに語る場面からわかる。リュウは少年期に車に乗った際に車窓から見えたものを繋ぎ合わせて頭の中で一つの街を作っていたことを説明する。こういった行動自体は、対向車線を走る車のナンバープレートの数を足したり掛けたりして遊んだりするような、誰もが少年期に一度は頭の中で思いついた退屈凌ぎの一つにすぎない。しかし、リュウがそうやって車窓から見てきたものを繋ぎ合わせてできた街は、今、俺たちが住んでいる街の換喩なのだ。つまり、後進国のある村で養鶏を営む若者達に公衆衛生のVTRを見せ、感想を聞いたとき、その全員が映像の途中で画面端を横切った鶏の話をしたように、人間は今まで見てきて、関わってきたものを援用してでしか、世界をみることができないということだ。そして、リュウはそういった世界において、純粋なために無防備だった。そのため、赤子がなんでもかんでも物を口に含んで確かめ、世界を知っていくように、あらゆる物を見続け、世界をより見られるために武装しようとした。そうしなければ、作中で公衆便所内でリンチされた友達のようになってしまうからだ。しかし、リュウは過剰に世界を捉えようとした結果、発狂してしまった。
多様性が謳われて久しいが、未だ声を上げている層は年齢が若者より少し上に思う。と、言うのも、若者は既に多様な価値観を認める(嫌悪感も好奇の目も示さない、なんともなく受け入れる)ことを獲得しているのだ。それは、上の層が叫んできた声をたくさん聞いてきて、意識せずともそういったモノを見ることができるようになっているためである。俺たちが表現したものは、必ず新しい層の中に(冷めた態度であれ、カウンターとしてであれ)根付く。表現は体験したことが自分自身を通って湧き出てくる。リュウは他の仲間たちが感情のままに泣いたり怒ったりしている中で、サポートに回る側だった。そのため、表現をすることで体験を昇華できなかった為に発狂してしまった。俺たちは生きていればその全てが体験だ。体験過多になって発狂しないために、表現しなければならない。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?