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愛鶏園事始め 創業者の言葉

愛鶏園の創業日は1925年5月5日です。昨年、改めて5月5日を創業記念日と定め、創業時の志や想い、会社の歴史、愛鶏園を支えてきた先輩たちに想いをはせる日としました。

今年も明日5月8日に社内で愛鶏園創業記念式典を行います。

昨年は1回目でしたので、全スタッフに、愛鶏園の事始めについて詳しく、説明をしました。昨年の原稿をそのまま、社内外に共有します。


みなさん創業記念おめでとうございます。今日は、みんなで愛鶏園の創業記念日を祝うことができて何よりも嬉しいです。お陰様で今年で愛鶏園は97歳となりました。
今年から5月5日を正式な創業記念日と定め、創業時の志や想い、会社の歴史、愛鶏園を支えてきた先輩たちに想いをはせる日とします。そして100歳までのカウントダウンをみなさんと一緒に行っていくこと、そして会社が200歳を目指していくための基盤づくりをみんなと力を合わせて進めていけることを、私は幸せに感じています。いつも本当にありがとうございます。
さて、改めて紹介します。創業者齋藤虎松とその妻満子です。
記念すべき第1回目の今日は、創業の日についてみんなと共有をしたいです。
時は1915年、横浜の片田舎の次男に生まれた創業者齋藤虎松は、15歳で日本橋の金物どん屋に丁稚奉公にでました。10数年も一生懸命働いていざ独立というときに、関東大震災が発生し、東京は焼け野原となりました。彼は主家の復興のために野宿を続けながら懸命に働きました。その功績で東京市から銀盃(ぎんぱい)をもらったほどです。しかし、その時の過労がたたって当時不治の病であった結核となり失意のうちに田舎である新横浜に帰ることになりました。当時結核の薬はなく、死に体のように体を休めるだけのどん底の療養生活がはじまりました。そんな中でも彼の母親は息子のためにと、村中を苦労しながらあるき回り、当時貴重であった たまご を集めてきてくれたそうです。それを生で飲み、薬の代わりとしたそうです。
齋藤虎松が、79歳のときに執筆した採卵随想養鶏昔話で愛鶏園の事始めについて以下のように述べています。昔の言葉で少し分かりづらいですが、読みあげたいとおもいます。

『 そうだ鶏を飼ってみよう、そうすれば母に卵さがしの苦労もかけず、元値で産み立て卵がくえるし、同病者に安く分けてやれば人助けにもなるし、と若いクリスチャンらしい考えで、ハハドリ孵化の続座の雛を10羽湯タンポ保温で育て始めたのが五月五日だった。

続座というのは地鶏に10個ぐらい抱卵させ、20日目の孵化直前夜の卵を取り出し、代わりにまた新しい種卵を入れ、ハハドリをだまして孵化させ、その雛を育雛箱に入れ、一升とっくりに湯を入れ、ぼろ布で包んでハハドリ代わりに奥に入れた。餌はアワの煮たのとメンザイとはこべ。どじょうが良いと聴き、夕立の時、田の水口にどじょう捕りをしかけて捕り、煮て餌にまぜ昼夜つききりで丹精した。モズのような丈夫な雛が育ち、これを繰りかえし育雛し、三か月もすると半分の若雄が値よく売れ、また半年たったら始めの分が卵を産みはじめた。産み立て卵は少なかったから飛ぶように売れ、若雄も鶏屋が奪合い。これは仕事になるぞと、そこは東京で仕込まれたおじいちゃん。鶏の本で勉強、実家の物置でいよいよその頃始まった人口孵化の無鑑別ひな150羽を三軒茶屋の孵化場から買い、湯タンポ育雛箱10個、背水の陣だった。素人には当時の弱い人口孵化ヒナは無理だ、皆死ぬといわれたのを、昼夜つききりで湯タンポを夜中にも取替え、見事八八%の育雛成績をあげ、結核上りの東京から帰ったハンニンソクは一躍、近隣にて有名になり、健康も取戻し、成績も100羽を越し、貧乏と失意のどん底から立上がることができた。商売も養鶏も同じで10年の辛抱も無駄でなく、算盤が立ち、信用もでき、新鮮卵欲しさに乾物問屋が一手出荷を条件に無利子、無担保、無期限で、若雄欲しさに鶏屋もこれまた無利子、無担保、無期限で金を貸してくれた。』

以上が創業者虎松が私達に残してくれた愛鶏園の事始めです。自分の命を救い、人生を変えてくれた たまご を一生の生業としてきめた齋藤虎松の創業時の想いを、みなさんと共有できてたことを嬉しく思います。

以上

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