勉強ってなんのためにするの?<学校の勉強ありき>の学びに、違和感
一般的に勉強というと、学校(または塾など)の授業や家庭でのドリル学習などが思い浮かぶ、っていう人は多いんじゃないかな?
そうじゃない勉強の仕方に対して、「それは勉強とは言えないよ!」とか、「そんな勉強じゃこの先通用しないよ!」「学校の勉強が全てじゃないだろうけど、でも基本でしょ?」みたいな感覚、社会の中にあると思う・・(私も思ってた!)
もちろん、学校の勉強が大事なことを否定するつもりはない。
ただ学校に行けないとなったとき
「学校へ行けないのは仕方がない、でも学校の勉強は最低限やらなきゃいけないよね?」っていう、あたかも学校の勉強をすることが最低限クリアすべきライン、みたいな考え方に今となってはすごい違和感を感じるようになった。
先日、感じたモヤモヤをここに書いて
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その後ふと目に留まった、今じんこさんの「学校に行かない君が教えてくれたこと|親子で不登校の鎧を脱ぐまで」を
パラパラ読み返していると・・そうそう、これが言いたかったなぁと思うページに出くわしたので、以下に残しておきます。
学校の勉強と不登校中の我が子の勉強(主にホームスクーリング)ってやっぱりどうしても同じにはできないし、する必要もないかなと思っていて。それは何でか?っていったら、「学校の勉強は手段にすぎない」これに尽きるなって。
いま私が目にする学校の勉強は、人と比較する場面が多く他者に矢印が向きがち。それが【自分を知る材料】となればいいけど、学校のシステム上どうしても【優劣の判断材料】になってしまっているように思う。
(集団で効率よく教育を受けることの弊害、なのかな・・?)
だから、もしそれが子どもの心や体を害することになるのなら
一旦その世界から離れて「自分の自由に向き合う機会を大切にしよう」という、その時間こそがホームスクーリングの学びの醍醐味なんだろうなぁと・・我が子たちを見ながら感じている。
ちなみに「学校の勉強」とは・・
教科書通りの勉強、◯年生で✗✗をやって…など決められたことを、決められた流れ・やり方でする勉強、などを私はイメージしています。
(更には何かしらの正解があって、その正解にたどり着けるように正しいとされるやり方を教わる・・とういう印象が強い ← ここも色々変化している学校もあるのかな?我が子の学校は印象そのままかなー)
上記引用は
苫野一徳さん(熊本大学教育学部准教授) が提唱されている考え方が元になっていて、そちらも少し載せさせてください
元の記事はこちら
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この考え方が私はとってもしっくり来ていて大好きだし、救われた。
とにかく本質だなぁと思う。今回もそうだったけれど、子どもの教育を考える上での軸になっているなぁと感じる。
「救われた」というのは、これは家庭でもできることだな (そして、いまそこを一生懸命やっている最中だな) と思えたから。
これについてはまた、別で書けるといいな。
全ての人が「生きたいように生きられる」
自分の自由も大切にした上で、相手の自由も尊重すること。
シンプルな言葉だけど、このなかに様々な要素が詰まってる。
そしてここまで視点を引き上げてみたら、学校の勉強はそれを叶えるためのひとつの要素、それ以上でも以下でもない。
人によってはそれも他の要素に置き換わったりするんだろう・・なんてことも思うのだ。
一方でこんな言葉も聞こえてきそう・・・
どれも、言われたことがあるし言いたいことはよくわかるなぁと思う。
なんだけど、、私はやっぱり違和感 (いや、どちらかというと反発よりかな、笑) なぜだろうなーー??
次、この言葉をかけられたときに、私は何と返したいだろう・・?
ちょっとモヤモヤと寝かせながら過ごします
終わりに・・
冒頭にお話した今じんこさんの本のご紹介だけ。
まんがで読みやすく、私はしんどい渦中を抜けてから読みましたがもっっと早くに出会えていたら!と感じました。
親子の心情を丁寧に大切に表現されていて、うまく言葉にできなかったアレコレも、代わりにあらわしてくださっていて・・それだけでも気持ちがスッキリで感謝感謝なのです!親子で共感しつつ、互いの気持ちもシェアしあいながら読ませていただいた本、おすすめです。
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