ADHDの私がストラテラに救われた話

ADHDの私がストラテラを服用して今日で一年が経った。
一つの節目として今の想いを残しておこうと思う。

まずは私の人生の生きづらさから話したいと思う。
かなり長いので、ストラテラの効果だけ知りたい方は点線部分まで飛ばしてほしい。

私がストラテラに出会ったのは、2018年10月18日。
私が20代半ばのことだった。
子供の頃から、同年代と比べて要領が悪く、何をしても簡単には進まない子供だった。
酷く内向的で、口数が少なく、伸びた前髪で顔を隠す陰気な子だった。
もちろん教師からの印象は悪く、友達らしい友達もいなかった。
この頃から、先生の口頭説明が理解できないなど、『普通の子』とは違う一面が現れていた。

小学生の時の印象的な記憶といえば、ひたすら本を読んでいたこと、物を失くして母にしかられたこと、担任に嫌味を言われたことだった。

性格ががらりと変わったのは中学生の頃だ。
多動感が強くテンションの高い私は、クラスのお調子者として目立ち始め、一気に交友関係が広がった。
今までとは真逆の印象になり、色々な人に面白い子、明るい子と言われ、友達のお家に行けば、その親にさえウケが良かった。
そしてお恥ずかしいことに、調子に乗った私は悪い仲間とつるんで問題ばかり起こし始めたのである。
自分が抱える生きづらさや家庭の問題に自分が対処しきれなくなったこと、反抗期が重なったことが大きかったと思う。
先生方は嫌悪感を隠さずに私たちと接し、性格の良い友人はどんどん離れていった。
焦れば焦るほどなにもかもうまくいかなくなっていった。
あの時、迷惑をかけた人には謝りきれない。

どんどんと底辺に転がり落ちる感覚が怖かったことや、本当に大切な友人から「このまま悪いことを続けるなら縁を切る」と言われたことで、少しずつ自分の行いを考え始め、やっと中三にかけて大人しい性格を取戻し、高校へと進学した。

高校では大人しく心優しい友人に恵まれたのだが、友人への虐めを庇ったことがきっかけでクラスの悪い子たちの反感を買い、代わりに虐められるようになってしまった。
(そもそも人見知りでオドオドしてたので、きっかけがなくても虐めにあっていたと今は思う)

自分への虐めもきつかったが、その頃私は人には言えないような家庭の問題を色々と抱えていた。
私の家は片親で、母は病気に苦しみながらも、私を女手ひとつで育ててくれた。
家計もずっと貧しく、心の余裕なんてものはなかった。
学校生活はというとやはり要領が悪く、移動教室では教室の場所も覚えられないから友達に着いて歩き、授業で理解できないことがあると「うっかり聞いていなかった」と嘘をついて友達に再度説明してもらって理解に努めた。

(私、社会に出てもやっていけるんだろうか)という不安が常にあったため、ある時バイトを始めてみた。
社会経験は自分を高めてくれるし、生活費も稼げる。
自分の要領の悪い部分を克服できるのではないかという期待があった。

結果は惨敗である。

バイトを2つ行ったが、どちらもミスが多くてクビになってしまった。
もちろん自分にはケアレスミスが多い自覚があったし、ミスを無くすための努力もした。
例えばバイトの前に自分でまとめた仕事のメモを、毎回20分ほど読み返したり工夫したが、ミスが一向になくならなかったのである。

『努力してもダメだった』

この時、私は自分の不出来さに絶望した。

同年代と比べてどうして私はこんなに要領が悪いのだろう……。
更にその頃は家庭環境も悪化しており、学校、家、バイト先の悩みで毎日を鬱々と過ごしていた。

高校卒業後、進学先では苛めもなく、またクラスのお調子ものポジションに戻った。
ガリ勉が功をなして高資格をバンバン取得し、先生の評価も上がっていった。

そして就職。
心配していたことがやはり起こってしまう。
仕事のミスが多発し、どんどん悪くなる職場の人間関係。
「お勉強が出来ても要領が悪いんじゃねぇ…」とひそひそ言われ、年下の同期たちとは馴染めず早々に一人になった。
そして更に配属された先でお局(と取り巻き)にモラハラを受け、毎日吐きそうになりながら会社に通った。
このお局たちは、私が配属される前から、数人の職員を苛めで退職に追い込んでいるような曲者たちで、上司すらもお局たちのモラハラに病んでいたのである。
ただでさえ普通の環境に馴染みづらい私が、普通ではない曲者ばかりの部署に配属されたのだ。
毎日が拷問のような環境ではあったが、上司や可愛い後輩たちと手を取り頑張っていた。

数年経ったある日、私が部の代表者として上司と共に上層部にかけあった。
数年分のモラハラ、パワハラの証拠と「お局たちの異動を希望する(部全員の)署名」を持参して。
どう考えても私と上司が正当で、証拠もあり、有利な話し合いに思えた。

しかし上層部の出した答えは「仕事でミスを連発した(私)さんをお局さん達がきつく叱りすぎただけ」であった。
上層部側では仕事が比較的できるお局たちを残したかったのだろう。
『仕事ができるお局たち』ではなく、正しくは『他人の成果を奪い、後から入ってきた後輩を虐めて辞めさせ、他人のミスをでっち上げて上に報告していたお局』だったが、上層部は見抜けていなかったのだ。

上司は数日後に、監督不行き届きとして別部署に飛ばされ、特にモラハラの対策はされないまま、上司不在の職場でお局たちと仕事をする形になってしまった。
上司がいないことで益々モラハラは激化し、やっていないミスをでっち上げられ、仕事をもらえず、上層部に私が不利になるような報告を幾度もされ、毎日吐きそうになりながら会社に通っていた。
無意識に「死にたい」「殺してやる」などの言葉を日に何回も呟いていた。
家では泣いて過ごし、夜は眠れず、朝も泣きながら支度をした。

……ここまで読んだ方は、転職すればいいんじゃないか?と思うだろう。
しかし私が育った田舎は求人数が少なく、どれも条件の良いものではなかった。
また、その頃の私は「何をやっても駄目なやつ」と自分自身で思っていたので転職先でもうまくやれる自信がなかったのだ。
そもそも大前提として転職する気力が尽き果てていた。
毎日を過ごすことでさえ、いっぱいいっぱいなのに転職活動ができる訳がない。(後にこの考え方はブラック企業特有の洗脳状態だったと気づく)

自分はなんでこんなに仕事ができないんだろう、本当にダメな奴だ、未来に希望がない、あいつらが憎い、この世の全てが憎い……と毎日グルグル考えていたある日、「あ、死のう」と思った。
しかしそれと同時に、最近テレビで話題になっている発達障害のことを思い出した。
(まだなんとかなるかもしれん……そもそもなんで私があいつらの為に死ななきゃいけないんだ)
精神が限界を迎え、自分の死を間近に感じた時、生存本能によるものなのか、逆に生きる気力が湧いてきたのである。

ネットで発達障害のことを調べ、県の支援センターがあることが分かったので、すぐさま面談の予約をした。
その時に母に「自分は発達障害かもしれない。面談に一緒についてきてくれないか」と初めて伝えたのである。
母はもちろん動揺していた。
まさか成人した娘に突然そんなこと言われると思わないよね。
支援センターに行くと、支援員の二人が迎えてくれた。
一人は研修生で参考のため同席するとのことだった。
私は学生時代の通信簿を持参し、子供の頃からの自分の様子や経緯を伝えた。
支援員が母にも事情を聴くことがあったが、その度に母は「確かにそういう傾向はあったが、到底障害があるようには見えない」と答えていた。
母も心の整理ができていなかったんだと思う。
信じられない気持ちでいっぱいという感じだった。
私は支援員に理解を期待したが、返ってきた答えは「発達障害であるかは病院で診断してください」だけであった。
私は2時間もの間、二人の支援員にただ自分の無能さを語っただけで終わったのだ。
支援センターでは心理検査も受けられると聞いていたのに、いざ支援員に聞くと「心理検査は時間と手間がかかるので気軽には受けられないようになってて…。病院でやったほうがいいと思います」とやんわり断られる。
私は本当に何の成果もないまま、勉強中の研修生にデータを取られただけだったのである。
この日のがっかり感は相当なものであった。

次に私は地元の精神科に片っ端から「発達障害の診断はできますか?」と問い合わせをした。
ネットで『発達障害は精神科で診断できる』と書いてあったからだ。
しかしいずれも、精神科に言われたのは
「発達専門の医師がいないから診断はできない。ただ、鬱や不眠の薬を出すことはできる」だった。
どうやら県内には発達を診断できる医師はいないそうだ。
目の前が一瞬暗くなった。
病院で診断してくれないなら私はどうしたらいいの!とショックを受けた。
藁にもすがる気持ちなのに、その藁が消えてしまったのである。

とりあえず電話をかけた中の、ひとつの病院に、不安を抱えたまま予約をした。
母にも理解してほしい気持ちがあって、初診は同席してもらった。
そこで診断されたのは「適応障害」だった。
不眠の薬と胃薬を処方された。
その際に心理検査(WAIS)を希望し、一ヶ月待ちで受けることができた。
心理検査の結果は私が思っているよりも簡単に(お遊びの心理テストのような感じ)で書かれていて、結局私の生きづらさの原因を把握するには至らなかった。
お医者さんの診断も曖昧で、「発達の特性で困りごとを感じるなら発達障害だし、特性が強くても問題なく生活できているなら健常者」ということを言われた。
先生のスタンスは『診断名はそんなに重要なことじゃない。診断がどうというより、目の前の困りごとを減らすよう努めましょう』というもので、私のモヤモヤは計り知れないものになっていた。
というのも、私が何よりも望んでいたのは、自分が障害者かどうか、という答えだったのだから。

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ここからストラテラが処方された話をする。

ストラテラを服用した朝、脳内の静けさに驚いた。
生まれて初めての感覚だった。

ただしその日から口渇感が酷く、食欲が湧かなかったため、体重が少しずつ落ちていった。
一番きつかったのは吐き気だ。
薬を服用すること自体に不安を感じていた私だが、その不安と比例して吐き気は強まっていった。

しかし、副作用で苦しむことはあったが、それ以上に得たものは大きい。
ストラテラで起きた私の体の変化を箇条書きで残しておこうと思う。

【ストラテラで悪化したこと】
・何事にも興味が持てなくなった(趣味にも興味がなくなり、何もしない日が増えた)
・無表情になった(人と会話して笑うことがしんどい)
・服用して9か月くらいまで吐き気で苦しんだ。
・舌のしびれ、痛みがある。何を食べても苦い(おそらく胃の不調と口渇感のせい)
・夜、中途覚醒が頻繁に起きる(普通は眠気が出るらしいが私の場合は逆に覚醒した)

【ストラテラで向上したこと】
・朝がすっきり起きることができる(一回目のアラームでおめめパッチリ)
・朝の支度がスムーズにでき、10分ほど時間が短縮された。
・化粧が丁寧になった(毎日最低限の化粧しかしていなかったが、アイシャドウ、チーク、リップ、ネイルがプラスされた)
・字が若干うまくなった。
・文章がすんなり理解して読める。
・何かに挑戦することが楽しくなった。
・周りのアドバイスを素直に聞けるようになった。
・姿勢が伸びて、シャキッと歩くことができる日が増えた。
・買い物の時間が短くなった(同じ売り場を何回もうろうろしないで済む)
・優柔不断だったのが、決断が早くなった(間違った選択をしてしまっても落ち込みすぎることない)
・余計なことを話しすぎてしまうことが減った。
・生理が軽くなった(おそらくストレスが減ったため)
・人から信頼されるようになった(人の話をちゃんと聴くようになったためだと思う)
・愚痴を言うことが少なくなった。
・仕事中になんでもかんでも人に確認してめんどくさがられていたが、聞くことと聞かなくていいことが分かってきた。
・食欲不振(食費がかからない)、身体が疲れにくい(仕事頑張れる)、無の感情(趣味にお金がかからない)、衝動性の抑制(無駄遣いしない)ことでお金がたまるようになった。

ここで更に、私の人生が大きく変わった効果を記載する。

・非常時にテンパりすぎて頭が真っ白になることが無くなった(少し時間がかかるが冷静な判断ができるようになった)
・物事を悲観しすぎなくなった(良い意味でまあいいかー!と思えるようになった)
・疲れにくくなった(休日は寝たきり&全く家から出ない生活がなくなった)
・執着心が減って持ち物を5割ほど捨てることができた(部屋が片付き始めた)
・過食が落ち着いて痩せてきた。(食欲不振とも言う)
・自殺願望が和らいだ。

自分が発達と認められてショックで悲しかったが、原因が分かって安心した気持ちもあった。
20代半ばまで自分を健常者だと思い、同年代にくらべて劣っていた自分を責めていた気持ちが少し楽になったのである。
私自身、自分を健常者と思い込んで生活している中で、あまり公には言えないが、障害者に対して「可哀想な存在」「自分とは違う世界」と思っていたのだと思う。
だから自分が障害者ということを知った時、障害者である自分を健常者目線で差別したのだ。
自業自得だった。

自分が障害者だと自覚した瞬間、すぐさま死にたいと思った。
一生付き纏う『障害』という重みに耐えられないと思ったからだ。

一番きつかったのは母の理解が得られないことだった。
私の『障害を分かってほしい気持ち』と母の『娘の障害を認めたくない気持ち』が見事に衝突してしまったのだ。

その時、理解されないことほど辛いことはないと知った。

今まで健常者に追いつこうとして努力してきたことを訴えても、「あんたの考えすぎ。これ以上悩みの種を増やさないで」と言われたのだ。
私のことを誰よりも想って育ててくれたのは母だ。
私より母の人生の方が苦労していたのも分かっていた。
その母に産まなきゃよかったと思われるのがつらい。
母の人生の足枷に自分がなることがつらい。
何回も喧嘩して、何回も泣いて、何回も死を考えた。
自分が生まれたことを後悔した。
将来に希望がなくて不安で吐きそうな夜を過ごした。

そんな時に助けてくれたのは、Twitterで知り合った、発達を持つ方たちの励ましの言葉だった。
理解がないことに苦しむ私にとって、同じ発達の生きづらさを抱える方たちの言葉は心に大きく響いた。
時に発達特有の生きづらさに共感し、時に頑張っている人を見ると、自分も頑張ろうと思った。
最初の頃、Twitterで服用日記をつけ始めた時は壁打ちのつもりだったが、少しずつ交流が増え、様々な情報を知ることができた。
自分に必要な支援を受けられるようになったのもTwitterの情報のおかげである。
Twitterは、今は自分にとって色々な意味で大切な場所だと思っている。

障害のある自分を少し受け入れられた頃、障害者手帳の存在を知った。
でもすぐに申請しようとは思わなかった。
『障害者の自分』をどうしても受け入れることができなかったから。
手帳を発行したら後戻りができなくなる気がした。

手帳を申請したのは一ヶ月半悩んだ後だった。
お医者さんの「今まで頑張ってきたんでしょ?その分の楽をしてもいいんだよ」という言葉で申請することに決めた。
自分では3級くらいだと思っていたのだが、発行された手帳は2級だった。
もう発達グレーゾーンと言い訳ができないような気がした(往生際がわるい)
だが、ショックを受けたと同時に「障害者2級なのに、今まで健常者のように生活していた自分すごくない?努力しすぎじゃない?」と思ったのだ。
それからは何をするでも「障害者2級なのにご飯作れるの偉くない?」「一般就労してるのすごくない?」と自己肯定感を高めることに繋がった。

一年経った今でも障害者の自分を受け入れることはできないが、少しずつ自覚が芽生えてきている。
母とも完全に分かり合えたわけではないが、私の特性や、病院であったことを話すと聞いてくれるようになったし、これからも少しずつお互いに理解していけるのだと思う。

私は今、ちゃんと前を向いて立つことができている。
人より遅いペースだけど、一歩ずつ確実に前に進めている。
今だって泣きたいことも死にたいこといっぱいある。
でも前より全然良い。

これからも困難がいっぱいあるんだろう。
だけど自分が幸せになるために、自分のために生きたい。
今はそう思えるだけで十分だ。

もし最後まで読んでくれた方がいたら、読んでくださってありがとう。
発達障害という生きづらさを抱える人が少しでも心穏やかに、楽しく過ごせるよう心から祈っています。


2019年10月18日

20代半ばでADHDの診断を受けました。現在はストラテラを中心に薬を服用し、なんとか生き延びています。