見出し画像

コーチングをやっているけれど、私はカッとなりやすい

ライフコーチングというものに出会って、3年が経った。私はいまコーチングをお仕事にしている。

コーチングを学んで、私の思考はまったく変わった。何かが起きても、1つ1つに一喜一憂するのではなく、それぞれをイベントとして捉えるようになっった。

イベントとして捉えるとはどういうことかといえば、これは○○だから良い/悪いと評価をして感情を上下させるのではなく、私の人生にこんなことが起きたなと俯瞰する感覚、というのだろうか。

とにかく、粒感でいえば中〜大くらいのことには、一喜一憂をしなくなったと思う。してもいいのだけど、心が疲れるような一喜一憂をしなくなったという感じ。


でも私は気づいている。粒感でいうところの、極小〜小みたいなものへの対処が、私はすごく苦手。だから日常では、たとえば恋人の言動にカッとしている。

書いていて思ったけど、これは粒感だけの問題じゃないかも。距離感も関わっているのかもしれない。


コーチの私

コーチの私を知ってくれている方からすると、私は穏やかな印象が強いのではと思う。コーチをやっているときの私は、ただその目の前の方の人生を眺めている。

一緒に面白がることも、時には悲しさを共有することもある。でも、基本的には眺めていて、傍観者だから見える気づきを相手の方に渡している。そんなイメージで、コーチングをやっていると思う。

コーチングをやっている私も、間違いなく私。スイッチをひとつ入れてはいるけれど、このときの私の存在は偽りではない。


それで、コーチの私は私の日常にも住んでいるから、コーチングの時間以外でも、私はかなり変わったと思う。

会社員の頃の私は、憂鬱に支配される時間なんてものはざらだった(むしろ生活の80%くらいは憂鬱だったかもしれない)。

でもいまの私は、生理のようなホルモンバランスとか、気圧や天気とかの問題でなければ、私の心を起点に湧いてくる憂鬱というのはなくなったと思う。

コーチングというものを身につけた私は、現実がこんなふうに変わり、かなり生きやすくなった自覚がある。


カッとなる私

でもお恥ずかしいことに、カッとなる私はまだ私のなかに生息している。というよりも、もしかしたら、コーチングに出会ってから強くなったのかもしれない。

私はもうコーチングというものなしには生きられないと思っている。でも、コーチングに出会ったことの唯一の弊害があるとしたら、自分の感情に正直になりすぎたことだと思う。

▼少し前にも、こんなツイートをしていた


おそらくだけど、私は自分のなかの「カッとなっている」気持ちに敏感になった。それに加えて、コーチングを通してコミュニケーションや愛を学んだ私は、恋人という存在を昔よりも信じるようになった。

結果何が起きているかといえば、心の距離の近い恋人に、カッとなることが増えた。そういえば私は昔から、家族にだけはカッとなって怒るタイプだったから、それが恋人に再現されているのかもしれない。


カッとなる私をどうするか

じゃあ私がこれをどうしようとしているかといえば、たとえばアンガーマネジメントを学ぼうと思ったこともあった。

さすがに恋人を傷つけているのではないか、それは私の望んでいることではない、と思ったから、たとえばこの本はずっと欲しいものリストに入っている。


でもなんとなく、まだこういう学びに手が伸びない。アンガーマネジメントという言葉にはもう5年以上前に出会ったと思うけど、まだ手を伸ばす気になれない。

私がこの言葉をどの程度正しく理解しているかということもあると思うけど、いまの私はこう思っていると思う。

すべてのことには、いい悪いはない。それを決めているのは自分や人間。だとしたら、この「カッとなる」性質も、何かの力によって克服するのは変なこと。私はまだこの性質に手をつけたくはない。


これは私のエゴかもしれない。恋人にとっては、いち早くなんとかして欲しいことかもしれない。

でも、ごめんだけど、もう少し甘えさせてほしい。私はこの性質の私をもう少し体験したいから。

……と書きながらも、今日も私は葛藤している。誰かを傷つけたくはないけれど、私は私のことを体験したい。

この記事が参加している募集

自己紹介

7年半勤めた会社を30歳で辞め、好きな場所に住んで好きな仕事をする人生を作り直すと決めました。サポートいただいたお金は、退職後にお仕事にしているコーチングのスキル向上や、noteを書き続けるための生活に使用します🙇🏻これからも記事を通してみなさんと繋がれたら嬉しいです☺️