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誰かを特別視して憧れ,特別な何かになりたい思うことを辞めたら,恐れがなくなった.

Tomokiです.ついに5月が終わって6月になる.初夏の夜の心地よい気候もあと少しだ.そのあとは雨音が響く梅雨の季節が近づく.それはそれできっと心地よいはずだ.

最近は手を動かすことに躊躇がない.色々な興味や好奇心が蘇ってきた.ものづくりを純粋に愛していた時期に漸く戻ることができた.ふと,なぜ自分はある瞬間からものづくりを愛してた人間から,手が動かない人間になってしまったのだろうと思ったので今日はそんな話.

他人からの評価を得られないと,自分の行為を肯定できなかった

もともと僕は誰かに評価されるためにものづくりを始めたわけじゃなかった.気が付いたら手を動かしていたということに過ぎない.初めは画用紙に絵を描くことから始まって,型紙をハサミで切ってテープでくっつけたりして遊んでいた.レゴでもよく遊んだ.僕にとってプログラミングはその延長線上にあるものに過ぎなかった.周りの目なんて気にせずに,自分が楽しいから勝手にやっていたことだ.

しかし,ある時,対外的な評価を気にするようになった.それは以前書いたように,楽しんでやっていることに罪の意識を持ってしまったからだ.楽しむことは罪で,苦痛や苦労を感じながら歯を喰いしばって何かをすることが善い事だと思ってしまったからだと思う.この時からきっと僕は評価を気にせずに好きなことをやることに対して罪意識を持ち,評価を第一に考えるようになってしまった.

評価を望むようになったのはきっと恐れからだ.評価されないのならば自分の行いは無価値だと思ってしまったのだ.それは狭い経済コミュニティの中では真かもしれない.もし,自分が,あるいは自分の創作物が他の誰一人にも評価されなかったら生きてはいけない.誰も買わない商品ばかり作り続けていたら,いつか生活が立ち行かなくなるという妄想に囚われてしまったからだ.そうやって周りの人間からも心配されてしまうことで,自分も不安を抱えるようになっていったのだと思う.

プログラミングを始めたのが幼少期だったのも大きな恐怖心を育んでしまった原因のひとつかもしれない.子供がテレビゲームばかりやっていたらゲームを取り上げる親は少なくないと思う.僕の家もそんな感じだった.実際にゲームを取り上げられたことはある.もっとも,携帯ゲーム機を隠し持ってこっそりプレイしていたけれども.そんな感じなので,テレビゲームの代わりにプログラミングにハマってしまった息子を目にしたとき,親からはパソコンでゲームをしているのと差がなかった.実際僕はプログラミングをゲーム感覚で楽しんでいたし,そもそもゲームを作ろうとしていたので,そう見えてしまうのも無理ない.学校の宿題そっちのけでプログラミングをし続ける息子を見たときに,「このままではいけない」と思ってパソコンを取り上げる発想になるのも無理はないだろう.

それによって僕はひょっとしたらパソコンを取り上げられてしまうかもしれないという恐れを得た.つまり,当時の僕は僕が楽しんでやっている事は須く取り上げられるものという学習をしてしまったのかもしれない.それはどちらかというと親よりも兄弟からの圧力も大きかった.事あるごとに「パソコン取り上げられた方がいいんじゃないか?」と言われ続けていた僕は,それが不安で仕方がなかった.もっとも父親が「何か秀でるものを持っているのは善い事だ」と理解を示してくれたお陰で,実際に取り上げられることはなかったのだが.

余談だが,親からは僕がパソコンで何をしているのかわからないので,ゲームか何かで遊んでいるのか,仕事をしているのか今でさえわかっていないようだ.それはどうしてもわからないので,理解するのを諦めたようだ.起業当時自分の部屋に引きこもってパソコンをずっと触ってた僕を見て,本当に仕事は大丈夫なのか心配されたこともある.そこは世代ギャップなのかもしれない.

評価されている人を尊敬すると同時に,評価されるストレスを抱えるようになった

自分が何かしらで評価されたいと思うようになったら,今社会で評価されている人を知って憧れるのは直感的だろう.そうやって僕は色々な人に憧れるようになった.それは何も有名人だけでなく,専門科目の教授とかもそうだ.

僕は高専に進学したとき,高専の教授陣をすごい人だと思って尊敬の眼差しで見ていた(今でも見ている).しかし,それは同時に自分より凄い人だと思う事で,自分は常に値踏みされる立場だという恐怖心も産んでしまった.

そうやって誰かを特別視した瞬間から,僕はその人と話すことが怖くなってしまった.この人と話す中でいつ自分が無能認定されるのか,どれだけ無知なのか,大した人間でないと評価されるのか怖くなってしまったからだ.評価されたいと思う癖して,誰かに評価されることをひどく恐れるようになってしまった.自分が完璧だと思える瞬間しか人前に出たくないし,当然自分が完璧だと思える瞬間など存在しなかったからだ.

まず僕は王道的な道を歩んでいた人間ではなかった.興味はどんどん広がっていくし,一つのことを極めるタイプじゃなかったのだ.プログラミングでさえ,ゲーム開発に興味を持って始めて,その後で自宅サーバー構築やWebプログラミングに興味を持ち,同時にコンパイラや低水準プログラミングに興味を持って,そしてマイコンに手を出したかと思えば,コンピュータビジョンやAI(機械学習),ロボティクスに興味を持つようになった(そして最近はUnreal Engineに戻ってきたのでゲーム開発に回帰してきた).プログラミングでさえこんな感じなのに,音楽や3DCGや絵に対しても興味を持っていて,全くやらない時期もあるが,時々思い出したかのように手を出していた.

そんなだから,まずあっちこっちに手を出す自分が,何か一つのことを極めた方が善とする風潮と比較して,劣等感を抱えるようになった.自分は単なる器用貧乏なのではないかと思うようになったんだ.何か自分の得意一つをとっても,その業界のトップとは到底太刀打ちができない.そんな感じなので自分には軸がないと思うようになってしまった.それが僕が自分に自信を持てない大きな要因だったかもしれない.

憧れを抱いて特別な人になることを目指したことによる劣等感と不満

そうやって自分を肯定できないでいる中,自分と同じように色んな分野に精通しているにも関わらず,結果を出して成功している人を見つけた.自分の上位互換だ.その瞬間に僕は希望を抱けるようになってきた.自分の人生をその瞬間から肯定されたような気分になったのだ.色んな技術に手を出しても良いと思えるようになった僕は,縋るような気持ちでその人に憧れて,その人のような人間になろうと目指すようになった.

しかし,目指すようになった瞬間から自分をその人の下位互換だと思うようになった.その人と同じような分野にはいるものの,どの面で比較してもその人には遠く及ばない自分にまたも劣等感を抱えるようになってしまったのだ.そうやって一時は王道でない自分に対する劣等感というストレスを回避したと思えば,自分の上位互換を見つけて劣等感を抱えるという事態に陥ってしまった.

そうやって尊敬する人や,憧れる人と出会うたびに,自分はどこかで比較して,劣等感を抱えるようになってしまった.自分なんかが話しかけていいのかとさえ思うようになってしまった.それは有名人だけではない.コミュニティで中心人物とされている人々に対してもだ.同時に専門家に専門分野について聞くことが後ろめたくなってしまった.しかも,それが例えばビジネスの提案や共同研究の提案とかではなく,単なる自分の興味本位な質問をすることに後ろめたさを感じることになった

しかし,その専門家が自分だったらどうだろう?AIを使ってこういう遊びをしたいけれど,どうやればいいか?と聞かれたら嬉しくなって協力したくなる気がする.たとえば,深層強化学習で格闘ゲームを学習させて遊びたいとかはやってみたいし,自主制作のゲームに組み込んでみたいという提案をもらったら面白そうだと思うに違いない.他人を自分とは違う特別な上の存在として見てしまうことによって,素直な自分の気持ちにさえ後ろめたさを感じて話しかけられなくなってしまった.

そうやって特に対外的にアプローチすることもなく,手も評価されるストレスで満足に動かなくなった自分は,対外的な発表を何もしていないにも関わらず,評価されない自分に対してコンプレックスを抱くようになってしまった.この瞬間から僕は評価されないといけないという本質を間違えた目標と,それに違和感を感じている自分で葛藤を抱えるようになってしまった.

特別視という弊害

誰かを特別視するということは,誰かを上に見るということだ.それは,逆説的に誰かを下に見始めるということでもある.自分が憧れてこの人に評価されたいと思う一方で,誰かを下に見て「この人にすごいと思われても…」と思ってしまうということだ.それは埋まることのない欠落感を抱えてことになる.

きっと,自分が何かしらに取り組んでいる間,自分のことを評価してくれる人々は必ず居た筈だ.それにも関わらず特別性に執着するあまり,その評価してくれる声に気づかなくしてしまっていた.その人々は自分をこの埋まることのない劣等感から救ってくれるかもしれない人であるにも関わらずだ.

そうやって自分が特別な何かになりたいという執着で世界を狭くし,他の誰かを特別化するあまり,自分からストレスを生んで,比較の世界に自分を引き込むようになってしまった.そして,絶えず誰かと自分を比較しては,自分の方が優れているだとか,劣っているだとかを評価せずには居られなくなってしまった.

それは周りを敵と見做す行為だ.誰よりも優れた人であろうとするあまり,次々に誰かを下に見ようと躍起になって,遂には誰かの粗探しをするようになってしまう.たまたま運が良かっただけだだとか,自分でもそれくらいできると,必死で自分を守るために本質からどんどん目を背けていってしまい,最後には周りが敵だらけの地獄のような日々を過ごすことになる.

自分が周りを評価するのと同様に,自分が周りから常に評価されているような錯覚に陥ってしまうわけだ.そうやって日々自分の拙い部分に大きな劣等感を抱えながら,より一層動かなくなる手と,評価の目に怯える自分と,自己肯定感を失う負の連鎖へと自分を巻き込んでいってしまった.どうやら自分の地獄のような日常は自分で作り出してしまっていたようだ.

誰かを特別視することを辞めて,特別な何かになることもやめた

その不毛な現実を作り出していた自分に気づいてから,僕はその執着を手放すことを決めた.それは先週のnoteに書いたことと似ている.今まで自分が強く執着していた厳しい現実は単なる僕が生み出した幻想に過ぎないのだと気づき,単なる悪夢だと忘れることにした瞬間から,僕には平穏が訪れた.それとともに手が不思議と動くようになった.それはきっと,僕の創造力が自分を苛ませる幻想を自ら創造してしまっていたからかもしれない.一番守るべき自分を苦しませるような妄想を生み出すような強い創造力なら,適切に使えば自分の望む幻想を作り出せるはずだ.それについてはこの記事に書いた.

結局僕は誰かを特別視するあまり,その人との比較でしか自分を肯定できなくなってしまっていたのだと気づいた.結局のところ評価の軸が1つしかない中でしか生きることをしていなかったのだ.結局僕は何かに囚われ続けていたに過ぎない.こうあるべきだという幻想から逃れ,自分の憧れの人を見つけたと思えば,その人との差分を埋めなきゃいけないという幻想に囚わていた.

それは結局のところ全くクリエイティブではない試みだ.そして,それは永遠に自分を肯定できない.なぜならば,最初から自分を否定し始めた先に行き着いた時点だからだ.特別な人間とそうでない人間の分け隔てを作りだしてしまえば,特別である誰かと,そうでない自分という構図を生み出してしまう.それが果たして健全な判断だろうか.

結局のところ,他人と比較しても仕方がないということに気がついただけだ.比較は上と下という立場を肯定してしまうし,無意識に他人を見下し始めたり,競争の世界を生み出して周りを敵だとしてしまう発想になる.そして,それは誰かを特別視したり,自分を特別な人間になりたいと思うことによって始まる.誰かが特別ならば,特別でない誰かが存在してしまうからだ.それは到底愛のある世界とは言えないだろう.

そうやって色々とフラットに見た瞬間に,誰かを特別視することを辞めた.それは要らぬストレスや負の感情を生み出してしまう.何よりそれはクリエイティブではないし,僕が望む愛のある世界にはならないことに気付いたからだ.誰かは価値がある人間で,誰かは価値のない人間などと決めてしまう行為に他ならない.それは視野を狭めてしまうし,何より自分を苦しめてしまう.

特別視をやめることで上下関係をなくし,愛のある世界を紡ごう

もともと誰かを見下すようなことはしたくないし,することはなかったけれども,誰かに憧れることはあったし,誰かを神格化することは僕自身多かった気がする.そして,意図せず比較をしては劣等感を抱えることが多かった.しかし,そうやって誰かを特別視することはその人の本質を靄の向こうに追いやって,煙に巻いてしまう行為であり,自分が望まない上下関係を生み出してしまう行為だということに漸く気づくことができた.対等でいることは重要だ.

もちろん,誰かに対して尊敬をすることそのものは問題ではない.しかし,それは上下関係などではない.歳に関係なく,実績に関係なく,誰しも尊敬できる部分はあるはずだ.そうやって周りの人々と接することができるならば,それこそが愛溢れる世界になるはずだ.僕はそういった世界で生きたい.

それならば特別視を辞めて,特別性に執着することをやめよう.特別な何かにならなくたって,僕らは僕らを肯定できる.僕らは僕らをそれぞれ尊敬しあえる.そこに肩書きや実績は必要ないはずだ.そして,それが争いのない世界を紡ぐ筈だと信じている.

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