見出し画像

知能検査の人気を受けて,知能とは何か,知能検査は何を測っているのかを語ってみる

この20年ほど,知能検査の人気がすさまじいです。

まず,知能検査を受けてみたい,あるいは子どもに受けさせたいという人がたくさんいます。そして教育委員会でも,個別の教育支援計画の前に,必ず知能検査を取るようにしているところも少なくないようです。そのため,検査予約は常に数ヶ月待ち。新規の予約を受け付けられず,再開がいつになるか目処が立たない専門機関もあります。

検査ニーズに応えるために,検査を取れる検査者の数も必要です。検査者養成の研修は常に申込みが殺到しています。抽選の場合は倍率が高く,5回目の申込みでやっと当選,という状態も普通のことであったりします。

なぜこれほどまで,知能検査が人気なのでしょう。知能検査とは,それほどすごいものなのでしょうか。

まずは,そもそも知能とは何なのかということから,簡単にまとめてみたいと思います。

ボヤっとした概念の知能

知能というのは,ものすごくボヤっとした概念です。「実態のない構成概念」です。

知能の定義も,色々な人が試みていますが,広すぎるため,結局どれもボヤっとしています。

唯一,パシッとした明確な定義があります。それは,

「知能とは,知能検査によって測られるものである」
("Intelligence is what the tests test")

という定義です。(Boring,1923)
しかしこれは,“測れる知能”というのは知能検査で検査したものだけだ,ということです。知能を“測れる知能”に限定した際の定義です。

generalな知能

その後も色々な人が熱心に知能に関して議論を重ねていく中で,一般知能因子"g"という概念が広く使われ始めました。general(一般,全般) の g です。
まず測れる知的能力を細かく具体的に定義し,そしてgeneralな知能がそれらの上位概念としてあるものだ,という考えです。
Boringが測れる部分だけを知能と割り切ったのに対して,こちらは,測れる部分の上に,ボヤっとした知能そのものをかぶせた訳です。

この考えでいけば,下位概念と上位概念の因子構造を因子分析で説明できるので,下位の能力を測ることで,上位の"general"部分も間接的に測ることができます。

ボヤっとした知能を数値化して取り出すうえで,この方法はもっともらしい理論・理屈があるため,近年ではこの g を用いた理論が主流となっています。その中でも「CHC理論」(Cattell-Horn-Carroll theory)が業界スタンダードとなりつつあります。

なお,このCHC理論による知能モデルも微妙にバージョンアップされ続けていまして,これがCHCモデルだ!とお示ししづらいのですが,だいたい,下図のような感じです。図の矢印の下にあるGcやGfなどが,推論,知識,短期記憶などの,個々の知的な能力です。

画像1


知能検査が測れるもの

繰り返しですが,知能というのは実態のないボヤっとした概念です。そして,色々な事情でそれをなんとかつかみ取ろうと努力し続けてきた結果が,現代の知能理論と知能検査です。

知能検査が直接測っているのは,上の図でいうところのGcやGfの部分です(それも,問題設定が適切であればという条件付きですが)。そして,上のモデル図ではGcやGfといった能力が18個ありますが,現在使われている知能検査が,この18個の能力を測るよう作られている訳でもありません。それは検査によって独自の歴史があったり,検査開発時のモデルが古かったり,現実的な検査ボリュームに抑えるためにも厳選せざるをえなかったりするからです。
そもそもこのモデルの18個ですら,本当に知的能力を網羅しているとは限りません。結局,知能検査が測っているGcなどの能力は,人が人為的に設定した能力です。そしてそこから間接的に,"g" を計算しているので,知能検査が測れる一般知能"g"は,あくまでも人が設定した部分だけの,限定的な知能にすぎません。

知能検査に関わる場合は,その知能検査が何を測っているのか,この検査で測れる知能とは何なのかということを,まず前提として踏まえておくべきに思います。検査結果から考察する支援者のみならず,可能であれば検査を受ける当事者の方々も,「知能検査の問題から分かるのは,知能の一部だ」とご理解いただければと思います。

しかも,知能検査の問題から分かるのは,その検査時点での,その検査会場での,そのコンディション下で発揮された知能(の一部)です。つまり,1回の知能検査で,その人の生涯に渡る能力を読み取るようなことはできません。

知能検査の過剰な需要を見ていると,まるでその人の何もかもが分かるかのように思われている気もしてきます。しかし実際の知能検査で分かることは,今まで説明してきたように,とても限定的なものです。

知能検査がふさわしくないケースもある

知能検査が「発達検査」と呼ばれていることもよくあります。しかし知能検査は,知能(の一部)を測る検査です。発達検査でも,人格検査でも,学習障害検査でもありません。

例えば,学校でノートの書き写しに苦労している子どもがいて,その原因と対策を探る目的で,知能検査が使われることがあります。しかしこの場合,知能の値を出すだけでなく,子どもの目や手に関する様々な能力を確かめてみたり,学校や家庭の様子などから何らかのヒントを探り出す必要があります
もしそれらを行わずに,知能検査の数値だけで書き写しの苦労を考察しようとすると,あまりに浅く,ほとんど意味のない考察しかできないと思われます。そして実際のところ,残念ながら,そのような主訴に沿わない検査レポートも多く存在する印象です。

近年,知能検査のニーズが非常に高まっている訳ですが,いったい何のために,何を目指して,この知能という概念(の一部)を測ろうとしているのでしょうか。

もちろん,知能レベルに応じた何らかの識別が必要なケースもあるかもしれません(ボヤッとした知能をそれでもどうにか測りたいという知能検査開発初期の情熱は,識別・選別目的からきているところが大きいように思います)。あるいは,脳機能障害などの状態を探る際も,まずはボヤッとした知能というものの状態を見ていくのが分かりやすいかもしれません。知能はその概念が広いからこそ,広く使えて,便利な面があるのは事実です。

そしてもちろん一方で,先述のように,知能を測ることがふさわしいと思えないケースもあります。このような,知能ではない,別の具体的な能力や状態を測る方がずっと実りがありそうな場合にも,「まず知能検査」となりがちな今の風習は,そろそろ終わりに向かってほしいものです。そこには多くの人の時間と労力,そしてお金が費やされています。そして,実りのない検査結果というのは時に冷酷です。人を傷つけるだけで終わることもあります。

人の役に立つために作った知能検査が,人の役に立てず,むしろ人を傷つけような使われ方をしているというのは,やはり辛いです。

知能とは。知能検査とは。

その実態を理解して,適切にその概念とツールをご利用いただければと願います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?