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三十三回忌を迎えた母の話

お久しぶりのnoteです。
いろんなことを綴りたいと思っていましたが、パソコンを開く気力の無さが勝っていました。

令和5年(2023)5月20日、三十三回忌。
平成3年(1991)5月20日に母は永眠し旅に出ました。

母が亡くなって数年は、母のことを話していたと思います。

母が42歳になる年、亡くなった時は誕生日前だったので41歳でした。
原因は胃癌、転移性骨髄癌。
母が亡くなった後、結婚して家を出るまでいい思い出がなかったのでいつの間にか母を憎く思った時期がありました。
母自身も病気で早く他界するとは思わなかったでしょうから、憎く思った当時は私も幼かったのだと思います。

尊敬はしていましたが、今思えば母も破天荒な、そして母親らしくないと言いますか。
幼少期、𠮟られては布団たたきで太腿を叩かれ痕が残るなど、タバコを押しつけられたこともあったりして。完全に虐待ですね。
ベビーブーム第二次世代は、学校でも先生にビンタされていた昭和でしたから。
それでも母のことが好きだったのは、一番話しを聞いてくれた人であり、寄り添ってくれたからだと思います。
父も暴力で物を言う人でした。「お姉ちゃんだからしっかりしろ」という理由で躾のために殴る蹴るとやりたい放題な人でした。ですがもっと小さかった頃は「優しかった父」の記憶が残っています。私が5歳の頃に仕事を理由に(もっといいお金になるから来ないか、的な話しがあったのか)父の妹家族と一緒に大阪から越してきました。
越してからも父と母はいろいろあったのだと思います。
母が働きたいと父に話した時に、理由も聞かず反対。
それでも母が説得して、働くことを渋々了承した父。
その頃から父だけの収入では生活出来ないと判断していたから。
母は生命保険のセールスを始めました。
コミュニケーション能力が高い人なので、営業も問題なく順調に顧客がつきはじめるも、上司から昇進の話が出ても「昇進するのはまずい、夫には月10万程しか稼いでないと伝えている」と答えていたらしく。

母は、仕事に出た頃から父と離婚をすることを計画していました。
恐らく、その時お世話になっていた上司と再婚するつもりだったのではと。
何度か私と妹でその上司と一緒にご飯を食べたりした記憶があります。

最終的に母が離婚を決意する事件がありました。
それは、私が父に殴られ吐き気がし病院へ、病院の勧めで入院することになった時。その時に母は離婚しようと決意したらしいです。
けど、離婚は叶わず。
母は余命1ヶ月でした。

私が中学2年の時に母は手術しました。胃の3分の2を切除。
ポリープという説明でしたが、ポリープの上に癌細胞があったようです。
術後5年経過が目標でしたが、術後約2年後に余命1ヶ月と宣告され入院生活となりました。
GWには家族で旅行に行きたい、温泉に行きたいという母の願いは叶わずひとり旅立っていきました。

母が旅立ってからの生活は壮絶でした。
父が働かなくなりました。
今考えると、ライフイベントによる精神的ダメージが一番大きいものは「家族の死」ですから、喪失感となったのでしょう。
父は子供が好きではなかったようです。
娘たちはどうでもいい、という発言もあったらしく。
大学進学を諦めて就職した私は、早くお金を貯めて家を出ることに目標を変えました。
父はたまにしか働かなかったため、消費者金融で借金を私がし、父の消費者金融の返済を立て替え、生前母の住民税未払い放置を分納し、国民健康保険料の分割支払いも少ない私の給料から支払っていました。
貯金なんて出来るわけがない。
妹の高校進学についても無関心。私が費用を捻出するか妹自身のバイト代でなんとか高校を卒業。妹は夢を叶えるために短大へ推薦進学しますが、当然父は反対。父に内緒で入学金を支払い何とかしろと説得しました。

私が結婚する話をした時の、父の第一声。
「俺はどうなるんだ、誰が俺の面倒を見るんだ」は一生忘れません。
アホか、自分のことは自分でやれよ。

母はもう少し長生きしたかったでしょうし、男の子が欲しかったそうなので、生きていたら私の息子たち、孫達に会えたでしょう。
もし両親が離婚していたらどうなっていたかな。
私はどうしていたかな。
前はそんなことを考えていましたが、今は考えていません。

母が旅立ってから、たくさん辛い経験をして今があるので。
もちろんいろんなことがあったけど、それなりに楽しくやってます。

三十三回忌当日。
就職した姪が私にご馳走したいそうで、アフタヌーンティーをいただきました。小さかった姪も社会人になり、姪より7ヶ月年下の私の息子も来年社会人になります。
妹と一緒にお墓参りをして、駅のファミレスでお茶しました。
たくさん妹と話しをしました。
母のこと、父との確執、お互い結婚するまで仲が悪かったことなど。

42歳になる年に旅立った母の年齢を
軽々と超えた娘達。私今年49歳、妹今年45歳。
今の私があるのはあなたのおかげです。ありがとう。
また来年お墓参り行くね。

トップ画像は、お供え用の仏花です。
青や紫が好きだった母に、差し色の黄色を入れて。

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