_僕の名前は___2_

歩いた昼の夢

 たぶん、いろいろ理由はあったはずだ。このままだとこごえてしまうとか、放っておけないとか、そういう。でも最たる理由は、なつかしい匂いがしたからだ。
 だから、うずくまっていたその子の手を引いたのだと思う。

 その子は、ほこり除け用としか思えない薄っぺらい布をまとっているだけの、みすぼらしい格好をしていた。肌着を何枚も着こんでいる僕でさえ震えているほどの寒さなのに、その子はそんな素ぶりを少しも見せなかった。ただ、僕のことをまっすぐ見つめていた。
 まるで、薪を集めていた僕に拾われて燃やされるのを待っていたみたいだ。燃やすつもりなんて、ないけど。

 僕は火をおこしながら、ひとに会うのはひさしぶりだ、と思っていた。
 山をひとつ越え、ふたつ越え、そしてみっつ目の途中、まさかこんなところで。女の子がどこからやって来たのか、詮索するつもりはないけど。

 ふいに、僕の手にずしりと重いものが乗せられた。なにかと思えば、缶づめだ。
 外装はほとんど剥がれていて、むき出しになったスチールの部分は錆びついている。かろうじて残っている外装の部分を見るに、なにかのスープらしい。頭文字のところは、削れてしまって読めない。
「くれるの?」
 女の子は僕の手に握らせたそれを、さらに指で包みこませた。僕はどうしようか迷ったけど、結局夕食が増えることになった。

 湯を沸かして缶づめを温めている間に、昼間のうちに取っておいた木の実を、女の子の手に握らせた。女の子は僕と同じように、ひとつずつ大事そうに食べた。
 ひとつをしばらく噛み続け、ゆっくりと飲みこんでから次を食べる。いつもはひもじさをまぎらわせる行いが、なんだかうれしかった。

 温まったスープを皿にあけると、知らない匂いが立ち上った。それなのに、とてもなつかしく思った。少し粉の匂いもする。かき混ぜてみると、白身魚の欠片が入っていた。
 あれだけ錆びた缶のなかに沈んでいたのに、スープはとてもおいしく、かじかんでいた手がほどけていくようだった。
 スープは女の子とふたりで分けて食べた。女の子は、僕にあげたものだからと、自分が食べることをためらったけど、僕が一緒に食べたいのだと言うと、目を伏せながら、分けられたスープを啜った。

 焚き火が下火になったところで、すっかり陽が暮れていたことに気が付いた。薪がはぜる音だけが、静かに響いている。
 女の子は、もともと伏せがちだった目を閉じて、僕にもたれかかって寝入っていた。
 か細い体はひどく頼りないけど、とてもあたたかい。火にあたったことで、少しはあたたまってくれたのだろうか。
 僕の上にも、少しずつ眠気が降り積もってきた。眠ってしまうことが、少しだけ惜しかった。

 目を覚ましたら、きっとこの子はいなくなっている。
 そんな気がしたし、それはきっと間違いではないのだろう。引きとめることは、しないけど。

 ふいに、頭の上で音がした。星が流れた音だろうか。
 あらためて満天を見上げると、流れている星はなく、それぞれの場所にとどまり、またたいている星ばかりだった。まだ生きているのか、すでに死んでしまっているのか、どちらにせよ、こちらからはみな、同じようにまたたいている。

 僕は女の子の手に、自分の荒れた手をそっと重ねた。女の子の手は、ひどく冷えていた。ひさしぶりにさわる人の手としては、冷たすぎるのかもしれないけど、僕には充分だった。

 そうか、と僕は思った。
 ずっと、そばにいてくれていたんだな。

 また、頭の上で音がした。今度こそ星が流れたのだろうか。

 これが夜であるうちは、夢であるうちは、そうでありますように。

 祈りが空に広がっていくのを感じながら、意識を手放した。なつかしい匂いが、僕を包んだ。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。 「サポートしたい」と思っていただけたら、うれしいです。 いただいたサポートは、サンプルロースター(焙煎機)の購入資金に充てる予定です。