_僕の名前は___2_

行く手は明日へ

 星がまたひとつ流れた。
 おそらく、あれが今晩最後の星だろう。空は、もう白み始めている。
 絶やさないようにしていた焚き火も、薪はあらかた燃えつきて炭になり、煙が立ち昇るばかりとなった。ひえびえとしていた空気はやわらぎ、かと思えば体が湿ってくる。

 彼女は、僕の膝に頭を乗せたまま眠っている。
 夢の中にまで寒さが沁みているらしく、眉をひそめると、腰までずり落ちていた毛布を、自分で肩まで引っ張り上げた。眠っているのに器用なものだと思う。

 なんとなく彼女の頭を撫でてみる。小雨をふせげなかったような、しっとりした髪の毛だ。まるで、警戒心のない小動物のようだ。
 彼女の髪の毛を少しだけつまんで持ち上げてみる。やっぱりそれは、獣の毛ではなくただの髪の毛だ。

 ふと、どこまで来たのだろう、と気になった。鼻を啜りながら、ぼうっと熱のこもってきた頭で考える。
 この平原に入ってから数日は経ったはずだけど、街のひとつも見えてこない。まだ数日だから、そんなものだと思うけど。

「何日、何年かかってもいいよ。そういうものだから」

 休む前に、水を啜りながら彼女はそう言った。彼女は水筒をかたむけると、必ず少しだけくちびるを湿らせてから水を飲みこむ。そんな彼女を見ていると、本当にいくらかかっても大丈夫な気がした。

 彼女を連れて旅に出てから、全く街を巡っていないわけじゃない。思い出している内に、自分がなにをしていたのか忘れるくらい、数多くの街を巡ってきた。
 僕たちの手を優しく引いてくれた街があった。手を払いのけて、僕たちを頑なに拒んだ街もあった。そのひとつひとつを、僕たちは僕たちの中にしまって、鍵をかけている。
 けれど、どんな街も離れてしまった今では、ただの記憶に過ぎない。そこに僕たちがいないのなら、それは僕たちにとっての街ではないのだ。

 彼女の長い髪の毛を手にとって、指の間からさらさらとこぼした。清水に手を浸しているようで気持ちがいい。何度も繰り返すうちに、悲しみが指先から身体の中へ侵食してきた。どこにも行くことのできない、途方に暮れた悲しみだ。
 弄んでいた髪の毛をてきとうに撫でつけ、健やかに眠り続ける体を眺める。彼女は眠り以外のものを僕に預けて、心から安心して横たわっている。やわらかな頬を、指先で軽く押してみる。もちろん、起こしてしまわないように気をつけながら。

 彼女も、悲しみを抱えこんだりすることがあるのだろうか。もしそうだとしても、その悲しみを、僕は量ることができない。

 いつかはどこかの土地に留まり、彼女と共に過ごすのだろうと思う。それは僕の望んでいることで。
 僕がそう望んだとき、彼女は僕の手をとって応えてくれた。あのとき彼女の手から自分の手に移ったぬくもりが消えてしまわないように、今もこうして彼女の手を握っている。彼女も、ひとりで夢を冒険していても、僕の手を離すことはない。
 旅を続ける中、僕たちはいつでも互いのぬくもりがそこにあることを確かめようとする。そのさなかに、悲しみも分け合っていたのだろうか。

 朝の匂いがする。星がまたたくように、小鳥の鳴き声が空の中に散らばっていく。炭はほつれるようにばらばらと崩れ、煙もつきていた。
 彼女が小さく身じろぎをする。僕はそっと彼女の頬をさする。目を覚ますまでに温まるように。

 許してほしい、と誰にともなく思う。

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