カトルとタタン_2_

カトルとタタン

「タタン、それは後回しにして」

 今からやろうとしていたことを遮るのは、人をがっかりさせるのだから、やめておきましょうね。
 カトルは前に(本当にずいぶんと前のことだけど)そう言っていたから、僕はがっかりした。
 カトルの言っていることにそっぽを向いてもよかったけど、さっきまでしていたことは、もうあんまりおもしろそうに見えなかった。これはもしかしたら、とんでもなくすてきなものだったかもしれないのに。

 台所に行ってみると、カトルはカトルで別のすてきなものをつくっていた。カトルの左手に、さとうが少しこびりついている。
「小麦粉、バター、たまご……」
 ぶつぶつとつぶやくカトルに、とんとんとん、とぼくはあいづちを打つ。
 カトルは、そばにやって来たぼくに気がつくと、きゅっと上がっていた目じりをゆるませた。

「タタン、ボウルを持ってきて。錫のよ。あまり傷がついていないものにして。それが終わったら、そこのカップに入ってる牛乳をあたためて。火にかけなくていいわ。手のひらであたためればいいから。それから、庭のガーベラの花びらを一枚だけ。とびきり色が薄いのを選んでね……」

 カトルはやつぎ早に指示を出した。こういうのはあんまり好きじゃないな、とぼくは思った。
 今日のカトルは、焼きすぎたクッキーみたいだ。ぼくは、ちょっと焦げたところがあるのも好きだけど。

 牛乳を手のひらでくるんでいると、なんだかカッコウのたまごをあたためているみたいだ。この中には、ぼくの知らない場所で生まれたものが、ひっそりと息をしている。手のひらに、なにかの呼吸がぶつかるのを感じる。
 ここから出して、かな。それとも、そこに壁があることに安心しているかもしれない……。

「あ」

 指と指のすきまから、白い羽が一本、勢いよく突き出た。
 あわてて手を放すと、白い鳥が一羽、大きく翼を広げて飛び立っていった。
 鳩よりずっと白くて、鷹よりもっとたくましい、はるか彼方へとけていく鳥だ。
 鳥は、少しだけ開いていた天窓をあっというまに抜けて、太陽の影に重なると見えなくなった。本当に、自由の中にとけていったかもしれない。

 カトルも、ぼくとおんなじ顔をしていた。ぼくはカトルに叱られる前に、ボウルを頭にかぶった。この世で一番こわいことは、カトルが怒ることだ。

「牛乳なくなっちゃった」
「いいのよ」

 カトルのやさしい声は、ちぢこまったぼくをなぐさめてくれた。本当は、ぼくがなにも見えなくて、ふらふらしていたからだと思うけど。
 でも、ボウルをかぶっていると安心する。岩石の巨人が腕を落っことしても、守ってくれそうな気がする。

 まっくらな中でミノムシみたいにじっとしていると、ぼくの好きな匂いがした。さとうとバターを混ぜているときの匂いだ。
 カトルがぼくの好きなことをしているから、ボウルを外した。カトルはぜんぜん怒ってなかった。
 ぼくはカトルにくっついて、ボウルに鼻を近づけた。ふんふんと鼻をならす。
「めっ」
 カトルはいたずらする鼻をぐいーとつまんだ。ぼくはそのままおとなしく、ボウルに耳をすませる。
 ざらざらしているのに安心する音なんて、この音しかないとぼくは思っている。世界に許されている音。

「父さんにも食べてもらうの?」
 ぼくはふと気になって聞いてみた。
「うん……ううん」
 カトルはあいまいな返事をした。
「お父さまにはまだ、ね。だから、これはないしょよ」

 ないしょ。
 そういえば、『ないしょ』は魔法のスパイスだって、タシルが言っていた。
 昔はよく、カトルが作ってくれたクッキーを、小麦の世話をしているタシルのところに持っていっていた。
 「他の人にわたすものを食べちゃいけません」とカトルに言いつけられていたけど、「お前も使い走りで大変だなあ」とタシルは『ないしょ』でぼくにもクッキーを分けてくれた。
 ぼくがカトルの言いつけを思い出して断ろうとすると、カトルに『ないしょ』で食べるから、もっとおいしくなってるぞと得意になって、食べさせてくれた。タシルと食べたクッキーはとってもおいしかった。

 タシル。
 なんでも知っていたタシル。
 今は、天国にいるタシル。

「どうしてぼくたちだけ船に乗ったの?」
 ぼくは、庭先のガーベラを見ていた。
 モンシロチョウがひらひらと飛んできて、花びらに止まった。とびきり色の薄い花びら。花びらはモンシロチョウの羽とよく似ていて、目に涙をためていたら、間違えてもぎとってしまいそうだ。

「タシルもテトラも、死んでいい人たちじゃなかったよ。ぼくとカトルだけじゃ、あの船は広すぎたよ。他の、ぼくたちが知らない人たちだって。みんなみんな、助けてあげられたよ。それにね、」

 カトルはそっと、ぼくのくちびるにふれた。怒ってはいないけど、すごく悲しい顔をしていた。ぼくは、カトルを悲しませてしまったことが悲しくて、目をぎゅっとつむった。
 少しだけ、あまい匂いがする。バターの匂いでも牛乳の匂いでもない。カトルにさわられているときだけ、この匂いがする。

 カトルは、きれいな顔をしている。
 カトルはどんなときでもきれいだ。苦しい思いをしているときでさえきれいだから、ぼくはそのことを考えると悲しくなる。 
 カトルは幸せの象徴だから、ぼくは子どもの象徴だから、父さんがそれを塗りつぶさないかぎり、ぼくたちはあたたかい世界の中心にいられる。いることが、できてしまう。
 それまでに生まれた悲しみは、水底に沈めたまま。

「今日は天気がいいから、外で食べましょう。タタン、これが焼き上がるまでしっかりと見張っておいてね」
 カトルはそう言うと、台所の奥へ引っこんだ。
 『ないしょ』のお菓子には『ないしょ』の紅茶を淹れるのが、ぼくとカトルの『しきたり』だ。『しきたり』は、父さんだって知らない。

 父さんに『ないしょ』にしていることは、たくさんある。
 カトルに『ないしょ』にしていることは、あんまりない。
 今のところは、ひとつしかない。それも、もうすぐ『ないしょ』じゃなくなる。
 さっきはちょっとだけ(本当にちょっとだけだよ)どうでもよくなっちゃったけど、やっぱりカトルに見せたくなった。
 この世で一番うれしいことは、カトルが笑うことだ。

「タタン、紅茶はどっちがいい?」
「カトルとおんなじのがいい」

 遠くの方で、鳥が羽ばたく音がした。今まさに地面を蹴って、空高く舞い上がる音だ。牛乳が、こっちに戻ってきたんだろうか。
 あいにく、君の出番はなくなったよと思う。もうオーブンの中でいい匂いが立ち始めているから。
 いや、君には新しい役目ができるかもしれない。ぼくがちょうど、今の君にとっても似合いそうなものを作ったところだから。

 カトル、見て見て。
 ぼく、海をつくったんだよ。

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