『ていねいさ』について考えていたら。
いいnoteを読んだ。このnoteという村は、こうしたユニークで、心根のやさしい方が多いので、やめられないのだ。
継続のコツ、についてだ。
から、はじまった内容は、頷くところばかりで、どうしてぼくはこの人の文章に惹かれているのか、がとてもよくわかった。
仕事でも趣味でも恋愛でも人間関係でも、なんでも一緒だと思う。雑に扱ったそれは、かならず飽きる。丁寧に扱ったそれは、かならず育つ。ノルマ的な仕事がつまらないのは、それを雑にこなす自分がいるからでもある。雑でもこなせてしまう自分が、対象を飽きさせる。
ていねいさは、自分を宿す行為。
『ていねいな暮らし』とか、『ていねいさ』という表現を、ぼくはよく見る。違和感があるわけではないし、むしろそうした風景や写真、ことばに好感を持っている。
テレビや雑誌、暮らしを扱ったものや、ものづくりに関する情報にはかならずと言っていいほど記載されることばだ。
ぼくは、『ていねいさ』とは、接するものや、人、時間に対する姿勢や構えのようなものだと思っている。『ていねいな暮らし』というのは手段であり、目指すものではないというのが持論だった。
古賀さんは、そこに加えて、『自分が宿っていく』という表現をした。
つまりは、『何か』に対してていねいに向き合い、時間を過ごし、扱うことで、対象になるものが、自分にどんどん近い存在になっていくという。
これを読んで「なるほど」と感じたのだが、長く使っている靴とか、服、文房具など身近なものを思い浮かべると、そのものに対して本当に自分が『ていねい』に扱ってきたり、向き合ってきた時間や態度というものが、顕著に現れる。
逆にそうしてこなかったものに対しては、どこか自分の外のモノという感覚が強い。
ていねいに接すること。
ていねいな場を作ること。
ていねいに書くこと。
それらはすべて自分にとっての『価値』というものに置き換わっていく。
そのことを強く感じて、帰路に着いた金曜日。
終わりに。
今日もとりとめもなく思いついたり感じたりしたことを帰り道にバァーーッと勢いよく書いています。『ていねいさ』とか書いておいてなんなの?という感じもしますが、いたってていねいなのです。
帰り道の時間、このnoteを書くと決めたその日から、やっぱり毎日書いてこれてるのは、この場が自分にとって価値あるだいじな場だと感じているからこそだと思うのです。
これからもどうぞよろしくお付き合いくださいませ。
お昼は、『俺のハンバーグ山本』のお弁当が余ったからと頂きました。
これも、すごくていねいな仕事でした。
ごちそうさまです。
ぼくも誰かの応援をしようと思います!