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裸で踊ろう。〜私の転職記〜

「では、私に続いて踊ってください」
広告代理店を約8年間勤務して転職。新しい職場の
初日は、こんな衝撃的な一言で始まった。

広告の仕事をしている最中、ひょんな事から舞台演出の魅力に取り憑かれ、演出家になりたいと心から
願うようになった私は、退職し暫く独学で舞台演出の勉強をした。そして大手老舗劇団の演出部の入団試験を受け合格。合格者説明会で言われたのは、
「演出部に入られた方は、演技部の方(俳優)と
 一年間同じ訓練を受け、舞台にも出て頂きます」
その瞬間、頭が真っ白になった。

俳優志望で合格したのは、ダンスや声楽のレッスンを積み、数十倍の競争率を生き残った表現力の塊のような方々。全ての表現力を評価され合格している。私と言えば約8年間PCに向かい、外回り営業をし、徹夜をし、憂さ晴らしにお酒を飲んでいた。そこで身体についたのは重い広告掲載紙を運んで、僅かについた腕の筋肉。歌はストレス発散目的でカラオケで歌うのみ。バックダンサーの同僚はネクタイを頭に巻き、芸を磨く世界にはいなかった。「こんな私が10代の一流俳優の卵たちと訓練を受けるのか、どうしよう」と暗い気持ちで帰路についた。

そして俳優訓練初日は、いきなりダンスレッスン
だった。「仕方ない、演出家になると決めたんだ、
決められた修行を受けようではないか」と覚悟を
決めた。当時29才の私は、前列でしなやかに舞う、10代の俳優研究生の背中を見ながら、小学校以来やっていなかったダンスを踊ってみた。自分でも驚く位リズム感がない、手足がもつれる。恥ずかしくてたまらなくなった。ふと横を見ると、同じ演出研究生のA君も顔を真っ赤にして踊っている。彼も元会社員で同い年。私と違うのは、恥ずかしくても踊れなくても、必死に踊っている所だ。一瞬で彼を尊敬した。
この時感心したのは、同期になる10代の俳優志望の男の子も女の子も、誰一人踊れない私達を笑わなかった事だ。全員がこの研究生になる迄、どれ位の努力をして来たか知っている。演出家の研究生で踊れなくても、同じ場にいる私達をリスペクトしてくれていた。この劇団は有名な演出家や、国民的俳優を数多く輩出して来た。一流の職場とは、こういうものなのだ。何も言わなくても、互いに敬意を払える職場なのだ。

演出家は、俳優の全てを知る必要があると考え、
俳優と同じ訓練を演出研究生に一年間受けさせた。
劇団の伝統的な教育方針だった。それを理解した
私は一年間、筋肉痛と戦いながら必死で踊った。
前の職場の同僚にたまに会って話すと「へぇー!」と皆驚いて興味津々に話を聞いていた。
俳優訓練をしながら行う研究生の公演に、私は
80歳の老婆役で出演した。とことんまでやろうと
巣鴨まで行って高齢者の方々の動きを見て学んだ。
その公演の初日、前の職場の先輩が大きな花を
楽屋に届けてくれ、嬉しくて涙が出た。
努力が実り老婆役は高く評価された。

俳優訓練を終えた後は演出家の見習いになった。
まず、わからない言葉がいっぱいあった。
なぐり(カナヅチ)香盤表(スケジュール表)
を始め、単位もセンチやメートルでなく尺や間だ。
専門用語の辞書を持ち歩き、必死に覚えた。
前説の台本を書いたり、音響や舞台監督をしたり、
欠席した俳優の代役をしたり、とにかくいろんな
仕事をした。
土日もなく終わりの時間は読めず、スケジュールも
読めない。そして、2年間交通費ほどしか給料が
出ない。やりたい事をやっている充実感は
あったが、会社というものの月給制度、有給休暇
制度、スケジュール管理等の有り難さが身に沁みた。

研究生としての3年間、身体を壊して休んだり
したが、必死に頑張った。そして準劇団員に
上がれるかどうかの査定で、残念ながら私は
不合格になった。頑張っていたが何となくこの
世界が合っていないような気がし始めていたので、
その結果に納得した。

自分で選んだ業界へ、自分の力で転職した。
結果は残念だったが、必死で頑張ったこの三年間
は私の宝で、得たものが沢山あった。私が選んだ
職場は一流だったと今も思う。下手なダンスだって、一生懸命踊った。だから悔いはない。

転職は誰だって、最初は不安だし自信がない事も
多いだろう。そんな時は、新しい道を選んだ自分に
自信を持ち、勇気を持って一生懸命踊ろう。
そうしたら新しい仲間が出来て、沢山の学びが
ある。前の職場の良さを知る事もある。
私のように残念な結果になったとしても、
それは決して無駄にはならない。時間が経った今、
それをつくづく思う。

私は今、小説を書きたくて小説講座に通っている。
必ず小説を書いて他の人に読んでもらう事になる。
恥ずかしいなぁ、と呟く私に講座の先輩は言う。
「まず小説出して。裸で踊らなくちゃあダメよ!」

また踊りですか、また頑張って踊りますよ。




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