2022年と22世紀/雑記

身辺に変化があった時、書けなくなる人と、逆に書けるようになる人と、いると思う。いや、人じゃなくて時なのかもしれない。書けなくなる時と、書けるようになる時が、一人の人の中で存在するのかもしれない。ポジティブな変化だったら書けるようになるとか、ネガティブな変化だから書けないとか、そういうことでもないのだろう。何が書くアクセルになるのかは、書く生活をもうしばらく進めてみないと自分にはわからないようだ。

2021が終わりを告げて、2022という聞き慣れない年がやってくる。昭和生まれの自分としては、西暦の始まりというものは19で、2022なんていう年数について考えることはなかった。21世紀について考えることはよくあった。1990年代には世紀末ということがよく言われていて、20世紀の終わりが強調されていたからだ。

とはいえ21世紀になって20年も経過した今から考えると、21世紀について想定していたのは最初の数年だけで、2011を境に世界の(日本の)フェイズは変わり、2018年を過ぎたあたりから個人的には異世界を生きているような感覚がまだ続いている(実際COVIDのおかげで2020年に世界は異になったわけだけど)。

そして2022と聞いてその異世界感は現状のMAXに達している。おそらくは「21」までは「21世紀」で耳にしていた数字だからだろう。22世紀について考えたことは一度もなかったから、22という数字には縁がなかった。西暦が世紀を追い越し、さてここからどうなるのか。

変化やスピードばかりがもてはやされる世の中は、あまり好きではない。それは狩猟時代からの原則なのかもしれないが、それを2022年にもまだ守らなければいけないのなら変化がなさすぎる。急ぎたい人、変化したい人がいるだけ。のんびりしたい人、そのままでいたい人がいるだけ。お互いに迷惑をかけずに認め合いながら生きていける空気は、薄くなって来ているムードと濃くなって来ているムードの両方があって、どちらがこの星の大気になるのかまだわからない。

自分に関していえば、のんびりしたいが変化はしたい。変化それ自体は嫌いじゃない。急ぐのが好きな人がいるだけ。のんびりするのが好きな人がいるだけ。人間というものはとにかく急いで稼がなきゃいけない、ということではないと思う。好きな人がやればいいだけ。

どの立場でも、盲信してはいけない。まわりに強要してはいけない。各々が互いを認め合いながら、ただ好きな道を生きるだけ。そういう世界が、22世紀あたりには来ていたらいいなと現状では思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?