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私の骨/掌編小説

夕方、テレワークの息抜きに、近くの池まで散歩に出た。七月の陽射しも陰りはじめ、池のほとりのベンチに座ってぼんやり水面を眺めていた。

すると水の底から、何か白い物体がゆらゆらと上って来た。ぷかっと水面に顔を出したそれは、骨だった。

それから三十分ほどで、辺りは騒然となった。池から白骨が出たらしい、と近隣から野次馬が集まってきた。僕が届け出た警官は「人骨かどうかわからない、一応本署で調べてもらう」と言って、回収班が来るまで僕は骨と一緒に待たされることになった。

黄色いテープが貼られたエリア内で待っていると、野次馬の中から「あの」と声がした。見ると若い女性だった。

「その骨、私のなんです」

関わらない方がよさそうだが……。

「私っていうか、おじいちゃんの骨で」

ぞっとしたが、彼女は意に介さず続けた。

「おじいちゃん、今度の東京オリンピックをすごく楽しみにしていて」

パンデミックで一年延期になった東京オリンピックが今夜、開会式を迎える。

警官が見かねてこちらにやって来たので、僕は「彼女の骨だそうなんです」と告げた。警官は眉根を寄せて彼女を見た。

「コウキチが……コウキチっていうのはおじいちゃんが若い頃飼ってた柴犬なんですけど」

彼女は汗をかきながら説明を続けた。

「昔の東京オリンピックでメダルを取ったマラソン選手にちなんでつけた名前らしいんですけど。犬って何十年も生きられないし、私が生まれた時にはもういなくて。骨だけが残ってたんです。おじいちゃんが大事にとっていて。

「東京でまたオリンピックをやることが決まって、おじいちゃん喜んでたんです。またコウキチと一緒に見られるって。でもおじいちゃん、癌になってしまって……。

「それで元気付けようと思って私たち、犬、飼ったんです。コウキチに似た柴犬。おじいちゃんも喜んでくれて、その子にコウキチの骨をあげて、その子はそれをくわえて遊んで。

「そのあとすぐおじいちゃんは亡くなったんですけど、お葬式とかでバタバタしていたら、いつの間にか骨がなくなっていて」

彼女は一気に喋った。僕は違うタイプの汗をかいていた。

「ここで白骨が上がったって聞いて、もしかしてと思って来てみたんです。ここにはよく散歩に連れて来てたから」
「すると……この骨は……?」

犬の骨……それともまさかおじいさんの骨……? 彼女はプッと笑って言った。

「やだ、コウキチの骨ですよ」

犬の骨でも笑えないが……彼女は続けた。

「犬って骨、好きでしょう?」
「……ん? それは犬にやる骨の話ですか?」
「そうですそうです……え?」
「ってことはコウキチくんの遺骨では……」
「当たり前じゃないですか、気持ち悪い。おじいちゃんが肉屋でもらってきたって言ってたんで、牛か何かの骨だとおもいますけど」

僕と警官は小さく安堵の息を吐いた。まったくややこしい話し方だ。すると彼女が真面目な顔で言った。

「その骨、返してもらえませんか?」

定まらない表情で、警官は応えた。

「そういうわけにもいかないんですよ。一応ちゃんと本署で調べないとね。あなたの骨ということなら、一緒に来てもらえますか? それとあなたも」

そう言いながら警官は僕の方を向いた。

「え、僕も警察署に行くんですか?」
「もちろん。第一発見者ですから」

面倒なことに巻き込まれてしまった。

「彼女の骨ってことでいいんじゃないですかね? いやおじいさんの……犬の……牛の?」
「しかし現時点ではまだ、あなたの骨ってことになるんですよ」
「僕の骨……ってそんな権利いりませんよ」
「権利って問題でもないんだけど」

「あの」と彼女が口を挟んだ。

「開会式までにかえしてもらえますか? どうしても見たいんです。おじいちゃんの代わりに、コウキチの骨を持って」

一瞬シュールな情景が頭に浮かんだ。僕はスマホで時計を見た。開会式は夜八時から。今はもうすぐ六時だ。「難しいかもしれないですね」と警官に言われ、彼女は肩を落とした。

僕は手の中のスマホを見て、つい口を出してしまった。

「スマホで中継見られるんじゃないですか?」

警官も「それなら署内で見てもかまわない」と許可を出したが、彼女はスマホを持っていないという。結局僕のスマホで一緒に開会式を見るという成り行きになった。

「その時までに、私の骨、戻ってくるといいんですが……」

まったく、骨の折れる話だ。

(了)

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