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愛さずにはいられない

中学1年時、国語の授業だった。若い女性教師は黒板に大きな円と、その中に非常に小さい円を描いて言った。

「この大きい円が森羅万象だとしたら、その中にある非常に小さな円が私たちの言葉が表現でき得る範囲です」

と。続けて言った。

「私たち人類は長い年月をかけて沢山の言葉を産み出してきました。言葉を産み出すということは即ち、未知のものに名前を付けて一般化するということです。言葉を産み出すことによって我々は未知なものを既知なものにし、意味づけをし、関連づけ、そのなかから法則を見出し、学問を発達させ、文化を築き、発展してきました。今日、私たちが享受している高度な文化や豊かな生活は全て言葉から産まれたものであると言えます。言葉とはそれほど偉大な発明なのです。しかし、黒板に描いた円のように、森羅万象の雄大さに比べれば、言葉というものは、あまりにちっぽけで、あまりに無力なものです。私たちの身の回りは未だ言葉では表現し尽くせない事象で溢れかえっているのです」

国語教師の言葉を聴いて中学1年の私は大変驚いた。それこそ、国語教師とは言葉の信奉者のような存在であると理解していたから、本来、言葉のありがたみや素晴らしさを滔々と語るはずの国語教師が、あろうことか言葉の不完全性について語ったことは、まさしく青天の霹靂であった。どのような文脈でこの話がなされたのか、今となっては思い出すことはできないが、若い女性教師が平然とやってみせた言葉に対する冒涜は、中学に入ったばかりの純粋無垢な私には、目の前に聳え立つ重厚な扉を力強く押し広げる烈風のように感じられた。烈風によって勢いよく押し開かれた扉の奥から、突如として強烈な光が襲ってきて瞬時に視界を奪われたが、光の先には確かに未だ言葉によって表現し得ていない世界の真の姿があることを直感的に理解し、私は一人高揚した。言葉だけで構築された世界に縛られた人間には到底感知出来ようもない世界の真姿の片鱗に触れたとき、多少の恐怖を感じながらも、私はその雄大さに感動したのである。そして、不完全かつちっぽけな存在である言葉というものを、まるで覚えたばかりの単語を並べて、不器用ながらもなんとか他者と意思疎通を図ろうとしている幼子のごとく愛らしく思った。我々人類はこの雄大な世界と対峙するために、言葉という道具を産み出したが、残念ながら言葉は未だ世界と対峙するにはあまりにも力不足である。しかし、人類の歴史とは即ち言葉によって森羅万象を表現しようとしてきた歴史であるのだとすれば、人類の歴史とはなんと健気で愛らしいものであろうか。長い年月をかけて私たちは言葉が表現できる範囲を拡大してきた。側から見れば、その営みはまさに赤子が月を掴もうと空に向かって精一杯手を伸ばすようなものであったのかもしれない。また、森羅万象からすれば、数千年以上をかけて私たち人類は赤子から小学生に成長した程度なのかもしれないが、諦めることなく月に向かって手を伸ばし続ける姿勢を私は愛さずにはいられない。
 唐突に襲いかかってきた国語教師の言葉は目の前に聳え立つ重厚な扉を力強く押し広げ、扉の先に広がる雄大な風景だけを私の眼前に残して吹き去っていった。それによって私は以前よりも世界を果てしなく大きく感じるともに、言葉や人類の歴史そのものを愛おしく思うようになった。そして、それによって私という存在が相対的に小さくなったことに対してどこか自虐的な快楽を覚えたことを今でも鮮明に覚えている。

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