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絶対的なるもの、永遠なるもの

 絶対性。
 国会図書館のオンラインの本登録をすませて、ゲーテ全集もサルトル全集も一望の下に見渡せるようになった時、そのようなものにみずからが支えられていたのだということを、つくづく知った気がした。
 鬱気にさらされて何もする気が起きねえ。
 もちろん、そんなもの今では流行らない。
 こと宗教の神なんぞ、もはや今ではなにものにもならない。
 けれども私たちは代々そのようにして生きてきたのだった。
 ピアニストはピアノを弾く時にのみただ、彼であるのであったし、科学者たちは科学的発見とともに、彼であってきた。
 そのような透徹や、持続的な集中を抜きに、人間の命運を語ることはできなかった。
 絶対的なるもの、永遠なるもの。

「はい、知っております。私の家庭が社会人として甚だ不適格の環境であり、子供を社会人として成長させる上にきわめて悪い影響を与えているだろうということは、自分なりによく知っているつもりです」
「でしたら、もう少し、賢明に、その環境を変えてあげられませんか。みすみすお子様を破局に突き落としていらっしゃるようなもんじゃありませんか?」
「いやー、破局に落ちているのは私です。ただ、私は自分なりの誠実で、せいいっぱいに生きているつもりですから、破局だからと云って、よけるわけにはゆかないのです」
          壇一雄「火宅の人」

 世俗と折り合いをつけることはいつでもかなわなかった。
 絶対的なる十字架をたずさえて、私たちはこの地上に降り立ち、ただ遊んだ。
 そして遊興の退屈であることを幾重にも学んできたのだ。
 そうだった。
 すべての遊びは退屈であり、退廃であり、街区の表皮を剥いだあとの無機質な壁に額をこつんとうちつける営みに、いつもほかならなかった。
 ひとと出会い、どのような店に連れてゆくか。
 そこに拘泥をもち、誇らしげな感覚をもつことにも飽きてしまった。
 どのようなものを好きだと主張をするのか。
 譲れないものは、ある、あるが、主張のむなしさにはとうに飽きていた。
 破局に落ちているのは私です、それは分かっている、理解をしている、だが真っ直ぐに破局をしなければならない。

 私たちは知っていた、溢れかえる諦念のなか、それでもなお旅立つ意志がいろどりを伴った意志であることに不思議を覚えながら、いつまでも旅は旅のままであるかのようだった。

静かに本を読みたいとおもっており、家にネット環境はありません。が、このnoteについては今後も更新していく予定です。どうぞ宜しくお願いいたします。