映画レビュー
「シャザム!」(☆☆☆☆)
商業的であると同時にたしかに職人的でもあるいつものDC作品。ユーモアがふんだんで面白い。(いやだから面白いですよ、という感じで評言が段々投げやりになってきている)
どうでもいいけれどもアクアマンにせよこれにせよ、続編があるよ、という作りになっているのだけれども、続編が作られるという前提のもと撮られてるんだろうか……? いや、いようがいまいが、だからわりとどうでもいい、そしてタイミングが合えばやったDC作品って長いからシネマイレージが儲かるんだよな、とかなんとか思いながら観にいくわけですが。
「吸血鬼(ポランスキー監督)」(☆☆☆☆)
「反撥」、「袋小路」に次いで撮られた映画でこの監督の初のカラー作品ではなかったか(オフラインのwikiペディアで確認しているかぎり)。「袋小路」のカオスさはないが、非常に洗練されたコメディ映画に仕上がっている。今観ても笑えるし、端正な出来であると感じさせてくれるのだ。翌年に監督の才質の一端が遺憾なく発揮された、それゆえに異様な構造を有した「ローズマリーの赤ちゃん」が撮られるが、初期作品の「反撥」、「袋小路」、「吸血鬼」、いずれもことなったモチーフの作品でありながらみごとに仕上がっているのはスゴイ。
飛び火させるとヒッチコックって上手いとは思わないし、黒澤の「夢」とかと同様に「鳥」などを観るとああこいつここまで馬鹿だったんだ、と率直におもってしまう。私が観たなかではチャンドラーが脚本を書いたものが一番出来が良かったのだが、そのチャンドラーであれやっつけ仕事で脚本を書きあの豚野郎、とさんざんヒッチコックのことを馬鹿にしていたのだ(当然といえば当然の話である)。まあ「戦場のピアニスト」に「裏窓」的な撮り方がどうとか、あるわけだが、これもビジネスで作ってもうこういうものは作りたくない、と作り手であるポランスキーがうんざりとして撮った「反撥」(非常に稠密な心理サスペンス)一本を前に、ヒッチコックは到底太刀打ちができない。エンジンが違うのですよ。
「あゝ結婚」(☆☆☆)
脚本には突っ込みどころがあり、俳優の演技も古式ゆかしく大根であるが、全体によくまとまっていてヴィットリオ・デ・シーカの職人芸を楽しむことができる。
自転車泥棒の文学的なイメージが強いからか、カラーになってからのヴィットリオ・デ・シーカって旅情とでもいおうか、これからなにかが起こるのだっていうわくわくとする感じがなんか、あるのですよね。いやなにかが起こるのは当たり前なのだけれども。「ひまわり」を観たくらいから覚えているわがドグマで、いわくいいがたい。
「七月のランデヴー」(☆☆☆)
ジャック・ベッケル監督。現代において観劇するに足りる象徴性は欠いているものの、不自然さを感じさせたりすることもない。九十分の尺のなかで群像劇としてよくまとまっている佳作だろう。
「ウェディング・バンケット」(☆☆☆☆)
ほぼ5。クラシカルな撮影がいまひとつで(まっすぐれ撮れていなかったりする)上流階級の主人公が乗っている車であるのにフロントガラスの埃が映っていたりだとかディテールにも少し問題があり(映像的な魅力を損んじてしまっている)、重要な役まわりである主人公の父親以外、全体に演技が堅い、――それらを汲んで☆ひとつを引いてみたが、アメリカを舞台にゲイの台湾人男性が諸事情があって台湾人女性と偽装結婚をする、というシチュエーション・コメディは現代からみてもそれ自体スリリングであり、かつしっかりとユーモアの力をもっている。複雑な両義性の味わいにも届いており、音楽の選び方使い方も面白い。傑作であるが、なによりも今のA24あたりに企画を持ち込めば喜々として飛びつくであろう映画が一九九三年に撮られていたという、そのとんでもない先進性に驚かされてしまう。
これは傑作でした。結婚シーンがすごく楽しそうに撮れていて、そして楽しそうに撮れていたことがのちにちゃんと映画のなかで繋がっていったりして。
食事シーンでお寿司が出てきたけれども、今はそんなこたないだろうが――なんか、鍋焼きうどんのアルミの皿みたいなあれに寿司が入っているのね(笑)。そして各自、ステーキを盛るような大きな皿にしたじをこう、淡く広くひいて、そこにアルミ鍋から取り出した河童巻きとかをちょこなんとつけて食べている(笑)。皿の端にわさびだかがりだかが乗っていたりして、……今はどうなんだろう、今もあるんだろうか、今はもうなくなっていて昔自販機で売っていたハンバーガーを求めるようにしてああいう寿司が食いたいんだ、ああいう寿司が、と探し求めている日本フリークのアメリカ人とか、いたりしないのかな。
静かに本を読みたいとおもっており、家にネット環境はありません。が、このnoteについては今後も更新していく予定です。どうぞ宜しくお願いいたします。