hip-hopと私
地元の古CD屋が潰れてからというもの(十年以上も前の話ということだ)、CDを気軽に買うフットワークを見失い、ならばといっそ開き直ったふうでいる。
なにかの節目でないと、新譜のアルバムを買わない。
最近、ブルーハーブのアルバムを買った。
二枚組だが、けして完成度は高いとは言いがたいだろう。新天地はみせてくれているが作曲もトラックも弱く、全体に稠密さには欠けている。しかしそれでも、ボスという人を私は見切るつもりにはなれない。ついていこう、というのではない、もっと抜き差しがたい地点から、否応なく共鳴してしまうこのバイブスを私は宿痾のようにして引き連れてここからまた先を進んでゆかなければならないのか、と、おもうのだ。
ブルーハーブと、鬼が好きである。
というと、両者の濃いファン双方向からパンチが飛んで来そうだけれども、
(通して聴いてご覧、どういうことかわかるから)
その点については、なにも弁解をするつもりはない、つもりになれない。
私はたとえば、ブルーハーブへの明確なdisソングである鬼の「ばちこい」を聴いていると、そうそう、たしかに、それはそう、といったふうに笑いながら聴いているのだったが、そのノリであり、笑いというものを、ブルーハーブの円盤を聴いている際に、一切持ち込むことはない。
ほんとうなのだ。だれも信じることがなくとも、約束をしよう。
持ち込まない、絶対に、持ち込ませないのだ、それが私にとって皿を聴くということなのだ、アーティストと向き合うということなのだ、それ以外にはモノに触れるということの単純な根幹も、基礎もないではないか。
ブルーハーブが好きです、とひとに言い、そしてそれを人に嗤われたのならば、それを私は甘んじて受けねばならない。けして「でも鬼も好きですよ」とただちに言うような人間には、なりたくはない。
予防線のように皿を扱う、ただの頭が発達しただけの猿にはなりたくはないのである。
さらにまたテメーがクソ田舎の福島出身だからという些末な事由をもって、ご当地だかなんだかというので、ろくにライヴにも行ったことがないのだというのに鬼が好きなのだ、という不純な理由は私にはひと摘みもない。そんなものは震災ビジネスにお盛んな箭内道彦だとか玄侑宗久だとか古川日出男だとかに食わせてやれば、いいだけの話だ。
ブルーハーブを聴く時に全力でブルーハーブに乗る、鬼を聴く時に鬼に全力で乗る。その結果としてどちらかについていけなくなったのならば、そこで見切ればいい。
表面的な対立だとか、なんだとか、いうのはどうでもいいことで、質を見極めてただ虚心に耳を傾ける。
読書の場合には濫読というやつがあるから、それが当たり前であり、同時にわかりにくくなる点であったろうが、その当たり前というのを保つこともひとつの試練のごときものなのだと、自覚をしていたいものだ。
マジで凄みが効いていて怖い、世界であるのは、ラップの世界だけではなく本当は活字の世界も同じであったはずだったのだから。
静かに本を読みたいとおもっており、家にネット環境はありません。が、このnoteについては今後も更新していく予定です。どうぞ宜しくお願いいたします。