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アカペラがなくても僕は息を続けるよ

LOVE TRIP

僕がずっと好きなバンド、the peggiesの「LOVE TRIP」という曲にこんな歌詞があります。

「君がいなくても僕は息を続けるよ でも、それでも君が必要なんだ」

互いに依存せず、自立した他人であるからこそ好きでいられるし、伝えたい想いがある、みたいなことを歌った最強の恋愛ソングです。本当に最高なので是非聴いてみてください!(布教)

閑話休題。

今まではこの曲を聴く時、「いい曲…」とか「作詞のゆうほちゃんの考え方好きだなー」とか浅いことしか考えてませんでした。

でも最近になってこの曲は、自分にとって大事なことを気づかせてくれた、本当に大切な曲になりました。

曲の本旨である恋愛絡みではないのですが、とても新鮮な気づきだったので書き留めておきます。

アカペラに捧げた大学生活

僕の大学生活はずっとアカペラサークルにどっぷりでした。

一番多い時だと9個のバンドを掛け持ちしていました。授業の合間にはアカペラの楽譜を書き、家に帰ればボイパを練習していました。

そんなんだから、自分は留学どころか海外にも一回も行きませんでした。バイトも必要最低限に抑えて、空けた時間はアカペラにつぎ込んでいました。インターンや勉強もほとんどそっちのけでした。

高校までにできた友達も居ますが、今はほとんど連絡をとっていません。アカペラでできたコミュニティに夢中になっていたからです。研究室を選ぶときも、「アカペラができる時間を確保できること」という理由が結構大きなウェイトを占めていました。まさにアカペラに生かされているような状態だったのです。

自分はアカペラに依存していた?

そんな自分も、就活という人生のターニングポイントを迎えて、「流石にアカペラありきで将来を考えるのはどうなんだ」と感じ始めました。アカペラを引退することが現実味を帯びてきたとき、僕は思いました。

「自分からアカペラをとったら何が残るんだろう?」

インターンなんかに行くと特に感じました。

「周りの就活生たちは留学や長期インターンに勤しみ、自分の強みをはっきり持っているようだ。それに比べて自分はどうだ。アカペラなんてニッチな世界に閉じこもっていた自分が、社会人として仕事をこなしていくなんてできるんだろうか...。」

面接で詰められ、自分の浅はかさを感じた時など、考えが止まりません。

「もしかして自分は、アカペラに依存していただけなんじゃないのか。いろんなチャンスが転がっていたのに、サークルの居心地の良さに甘えて、それらをみすみす逃してきたんじゃないのか。」

今振り返ると、後悔しても始まらないし、そもそもアカペラに対してもサークルに対しても失礼なこと考えてんなーとは思います。でも止められなかった。いざアカペラというバックグラウンドが消え去った時、自分の化けの皮が剥がれるのが怖かったのです。

そして、思ったよりも一年早く、僕のもとにアイデンティティ・クライシスの影が忍び寄ることになります。コロナウイルスの流行です。大学からの要請により、サークル活動は全面的に休止。僕という人間からアカペラが取り除かれたのです。

アカペラを奪われて初めて気づいたこと

さて、ずっとサークルに使ってきた土曜日が完全にフリーになってしまいました。平日練ももちろんストップ。楽譜もしばらくは書く必要がありません。サークル員の人たちともほとんど会えません。僕は一体どうなってしまうのでしょうか。

三月。
サークルの自粛が始まりました。僕は後輩たちが区切りの解散ライブを開催できないことに胸を痛めながら、就活を続けていました。アカペラにはほとんど触れていませんでした。

四月。
就活が終わったので、取らないといけない資格の勉強を始めました。研究室が自粛になってからは、家で論文を読んだり、内定先の研修の課題を説いたりしていました。アカペラにはほとんど触れていませんでした。

五月。
暇になってきたので、noteを始めたり、ニュースアプリを入れて読んだりしていました。研究室が復活してからは、深夜まで残って実験進めたりしていました。アカペラにはほとんど(以下略)。

六月。
社会人になる前にインプットを増やそうと思い、英語学習と読書をはじめました。アカペラには(以下略)。

七月。
アカペラ(以下略)。

あれ...?

僕は思いました。

「意外とアカペラなくても全然病まないな?」

僕はそんなに薄情なやつだったのか?

そう。暇だとは感じていても、アカペラが奪われたことによるアイデンティティ・クライシスは、僕には全く訪れなかったのです。

むしろずっとご無沙汰だった読書を復活したり、研究に打ち込んでみたり、ニュース見たり、勉強したり。自分の意志で色んなことに取り組み、そしてそれを結構楽しんでいる自分がいることに気付きました。

もちろんアカペラが好きな気持ちは微塵も変わることはないし、後輩たちのためにも自粛は早く解除されて欲しい。でも、たとえアカペラができなかったとしても、僕のメンタルは大丈夫だろう。そう感じてしまったのです。

こうして、アカペラがなくても全然やっていけるということを図らずも確認できたわけですが、僕には別の感情が押し寄せてきました。つまり、

「自分にとってアカペラはそんな簡単に捨てられるものだったのか?僕はそんなに薄情なやつだったのか?」

ということです。アカペラが自分の人生の主軸じゃなくなっていく。そしてそれにあまり抵抗がない自分に驚き、戸惑っていました。

別になくてもいい。だからこそ大切にできる。

そんな時、ふと僕の頭の中に「LOVE TRIP」の歌詞が浮かびました。

「君がいなくても僕は息を続けるよ でも、それでも君が必要なんだ」

心の中のモヤモヤが一気に晴れたような感覚でした。

思ったより僕はアカペラに依存していませんでした。僕はアカペラがなくても一人で立っていられる。でもそれはアカペラのことを大切に思っていなかったからじゃない。

僕はアカペラに依存していなかったからこそ、アカペラをすることを自分の意志で選んでいたからこそ、今でもアカペラが大切なんです。それはたとえ自分の主軸がアカペラでなくなっても変わることはありません。

この気づきのおかげで、僕はアカペラにどっぷりだった大学生活を完全に肯定することができました。僕は依存していたんじゃなく、自分の意志でアカペラを選んでいました。僕にとっては留学よりもバイトよりも研究内容よりも、アカペラが大切だったからです。ただそれだけです。

そして、アカペラがなくても元気に生きているのは、僕がアカペラに依存していなかった証拠です。自分からアカペラを取り除いても、僕は僕という人間をしっかり定義できる。それが分かったおかげで、むしろ純粋な気持ちでアカペラを大切にしていきたいと思えるようになりました。

今にして思えば、これまでの人生もずっとそんな感じでした。囲碁、弓道、吹奏楽、劇団、和太鼓...。色んなものに熱中し、そしてやめてきました。でも不思議と「飽きた」と感じてやめたことはなかった。きっと、それらがなくても自分を定義できることを本能的に知っていたからです。大切だとおもっていながらも、依存していなかったから、次の何かに躊躇なく飛び込むことができたのです。

ちょっとポジティブすぎるかもしれないけれど、今回の気づきは、これからの人生においても、ずっと大切にしていきたいなと思っています。自粛生活がくれたささやかな贈り物です。

最後に、もう一度「LOVE TRIP」の歌詞を振り返って、この記事を締めようと思います。こんな自分語りの記事をここまで読んでいただき、本当にありがとうございました!

「君がいなくても僕は息を続けるよ でも、それでも君が必要なんだ」

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