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恐ろしいほどの我慢があまりに当たり前すぎて「空気」になってる件

子どものころって「自分の今いる家庭」があまりに当たり前。それが、いまジブンが生きている前提の空気だから。どんなに我慢していようと、苦しい状態だろうと、それが「空気」のように当たり前にそこにあるものだから。人は無意識にそこに合わせて生活していく。小さな子どもであっても、それはわたしたちの「生き延びていく手段」の生存本能として当たり前に発動する。

そしてそれはその人にとっては「空気そのもの」。客観的に見ることはほとんどない。不都合がない限り、「いま吸っている空気をきちんと見直してみよう」なんて思わないからね。

そう、不都合。「我慢」があまりに積み重なると、それはときどき暴発する。パートナー氏は普段おだやかだけど、たまに、2年に1回くらい暴発することがあるという。気づくとなにかが壊れていたり。壁に穴があいていたりする。そして、自分ではその間の記憶が抜け落ちている。なにかがおかしいと気づいてはいても、まだ生きていけてる。それで見て見ぬふりをし続ける。

今回、わたしが彼に、彼の成育歴が普通ではなかったいうことを伝えたことにより、やっと彼は自分を客観的に見つめることができた、という。わたしからすれば「どう考えてもおかしいし、生き方そのものにも大きな影響与えてるから気づかないなんてありえない」って思っちゃうんだけど、ヒトってほんと、自分のことってわからないものなんだよね。

それで彼も、痛みを伴いながらもいま、少しずつ向き合う日々がつづいている。毎日変な夢を見続け、起きたときに鬱っぽくなっていて起き上がれなかったり。三歩前進して二歩下がるみたいなことも多いけど、少しずつ少しずつ、ラクになってきているみたい。

そんな彼を見守りつつ、わたし自身もじぶんのことを今まで以上に見つめる機会にもなっている。彼とは程度も内容も異なるけど、わたしも我慢が習慣化している。もちろん、我慢がすべて必要ないというわけじゃないけど、ここは我慢することなく伝えられるよね? ってところでも我慢してる。空気のように習慣化されたガマンなのである。

それを、意識的に我慢をやめてみる。ヒトに伝えてみる。「自動化された習慣をやめる」というのはなかなかに緊張する。人は変化することに拒否感が出る。でもそれをあえてやってみると、「なんだ大丈夫じゃん!」ってわかり、そっちの方が心地いいことがわかると、少しずつ少しずつ変化していける。最初のうちはまだ「意識的に」だけど、それも習慣化すると自動運転になる。

言語化するとなんだか仰々しいけど、とにかくやってみる。ゆるんでいく。そしてまた、新たな「ガマン」をやめていく。ただただその繰り返しなのだ。


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