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こたつみかん

 コタツとミカンは、切っても切れない関係。
 コタツに乗ったミカンを、手を伸ばして取る。
 皮をむいて食べる。
 よく熟れて甘いものに当たる事も
 早すぎて酸っぱいものに当たる事もあって、ちょっとロシアンルーレットっぽい。
 たくさん買いすぎて飽きて放置して中身がスカスカになってる時もある。

「甘いミカンばかりなら良いのに」
 八枝が呟くと、母親が「何勝手なこと言ってんの」と即座にクギを刺した。
「ミカンにだってミカンの都合があるんだから」
「何よそれ」
 八枝は母親の言葉を笑い飛ばした。

 そんなことを、ミカンを剥きながら思い出す。
 大学を卒業して、就職と同時に初めての一人暮らしをしている八枝に届いた実家からの段ボールに、ミカンが一袋入っていたのだ。
 郵送の途中で他のものに押され、一つは潰れて腐っていた。

「んも〜」
 汁だらけの袋を捨てて、無事なミカンを全部洗いながら、メンドクサイ、と呟く。
「腐らないミカンがあれば良いのに」
 手を洗い、早速剥いて食べている時に、母親の言葉をまた思い出す。
「何よ、ミカンの都合って」と、可笑しくなって笑う。
「擬人化にも程があるわよね」

 ミカンの量が多すぎたので、翌日会社へ持って行って、自分の課の人たちにおすそ分けした。
 お昼に自分の分を剥いていると、隣に島を作る営業課の男性が八枝の後ろで立ち止まる。
「良い匂いだね」
 振り返ると、確か3年ほど先輩だと聞いたが、まともに会話をした事がない石倉がミカンを見ている。
「まだ10月初めなのに、早いね。実家は南の方?」
 八枝はきょとんとした。
 ミカンが早い?南?
 話しかけられた意味がよく分からないまま、でも会社の先輩なので反射的に笑顔を作ってハイと頷いた。
「もう甘いの?」
「はい。普通に」
 へえと言って石倉はホワイトボードに向かい、営業回りと書いて部屋から出て行った。
 彼の姿が見えなくなってから、(ミカンあげれば良かったかな。食べたかったのかな?)と思い至り、余っていたミカンをひとつ取り上げて石倉の席へ置き<ひとつですが、どうぞ>と書いたふせんを添えておいた。

 その日は、八枝が仕事を終えるまで石倉は帰社しなかった。
 いや、営業課のほとんどの社員が日中は得意先回りで不在にしている。入社して半年の八枝は、まだ自分の仕事で手一杯で、他の社員がどんな仕事をどうこなしているかまで気が回っていなかった。
 隣に座っている先輩の正木に聞いてみる。
「営業の皆さんって、戻って来られるんですか?」
 エクセルシートと格闘していた正木が、ん?と振り向いて、ちょっと休憩、というようにメガネを外して背伸びした。
「ボードに直帰と書いてなければ、大体は戻ってくるわよ」
「でももう17時半ですけど」
「営業はいつもそうよ。昼のうち得意先回れるだけ回って、事務作業はそのあと。だから遅くなっても戻ってきて、それから皆作業してるわ」
「そうだったんですか」
 八枝は業務課なので、そこまでひどい残業は滅多にない。
 誰かに聞いたことはないが、なんとなく、皆同じような勤務時間なんだろうと思い込んでいたのだと気付かされた。
「大変ですね」
「ほんと。私は営業とか絶対無理。接待で深夜まで飲まなきゃいけない時もあるし、もしミスでもあれば得意先に土下座しなきゃならないかもだし。できないわあ」
 八枝はふと、正木と話しながら飲んでいる温かいカフェオレのマグカップを見つめた。入社してすぐに買った会社用のカップにカフェオレをたっぷり作るのが、最近の午後の習慣になっていた。

 営業の島をもう一度振り向くと、多くの机の上には、朝買ってきたコンビニコーヒーのカップやペットボトル、栄養ドリンクの瓶などが飲みかけで残されている。
 (一日中外を回って…ゆっくりドリンクとか飲んでる時間もなかったりするのかな)
 石倉の机の上で静かに彼の帰社を待つミカンが、どことなく冷たくひえて見えた。

 朝はどの課も全員同じ時間に出社する。
 営業チームも当然全員揃っていた。
 石倉は、朝礼後に八枝の席に来て「ミカンうまかったよ、ありがとう」と言い、また慌ただしく出て行った。
 営業部長の机の前に置かれた箱に、日報が積まれている。
 (あれ全部、昨日の夜に書かれたの?)
 八枝は昨日は19時までには会社を出て、晩ご飯の材料をスーパーで買い、簡単に作って食べた後は、好きな漫画を読んだりシャワーを浴びたり、大学の友達とラインで話したりしてのんびり過ごした。
 それでも学生時代より自由な時間が少なくて、いつも(働くってメンドクサイ)という気持ちが消えないでいる。
 定時の退社時間より遅くに帰社して、それから日報を書くなんて絶対にイヤだ。

 (なんであんなに働けるんだろ)
 改めて営業チームの面々を見るようになって、嫌な顔して営業に出る人もいれば、体を壊しているのに無理を押して出社している人もいることに気が付いた。
 石倉はわりと明るい方ではあるが、かかってくる電話によっては、頭を抱えている事もある。
 (お金のためかなあ)
 お金はいくらあっても足りないしな、と思うと、少し納得できる気がした。

「岡さん」
 呼ばれて振り向くと、石倉が立っている。その手にあるのはミカンだ。
 八枝が石倉におすそ分けしてから2ヶ月以上経った日だ。
「うちの実家の方のミカン。この前のお礼」
 と言いながら袋からひとつ取り出して八枝に渡すと、残りは「業務の皆さんにも」と正木に手渡して自分の席へ戻った。
 慌ててお礼を言うと、いやいやと席から手を振ってくる。
「うちの方って、石倉さんご出身はどこなんでしょう。北の方とかですか?」
 ミカンを全員に配り終えた正木は、素っ気なく返してきた。
「さあ?聞いてみたら?」
 うーん、と八枝は黙り込む。直接尋ねるほど出身が聞きたいわけじゃない。
 なんとなく、ミカンの旬をパソコンで検索してみた。

 すると、八枝の想像以上にたくさんの品種の名前が出てきた。それぞれで旬の時期が違うのが一目で分かるような一覧表まである。
「へえー、そんなにあるんだ、ミカンって。どれも同じ味にしか思えないけど」
ミカンを頬張りながら正木が画面を覗いてくる。
「ほんとですね。私も全部同じだと思ってました」
 そしてまた、ミカンは寒い地方ではうまく育たないため、関東より北では栽培されていない事も知った。
 (石倉さんに北の方の出身か、なんて聞かなくて良かった。無知をさらすとこだったわ)
 ホッと胸を撫で下ろし、なんとなく石倉を振り向くと席にいない。
 もう出たのかな?と室内をぐるりと見回すと、営業部長の後について部屋を出て行くところだった。心なしか、肩に緊張が見える。

「ああ、部長のカミナリが始まるぜ」
 営業回りにまだ出ていない1課のメンバーから、小さな声が聞こえた。
 (え?)
 思わず耳をそばだてる。
「いやあれ石倉が悪いわけじゃないじゃん。明らかに向こうの発注ミスでさ」
 若手のヒソヒソ話を、10年選手の先輩が遮った。
「確認作業はうちだ」
 その一言は、石倉が負うべき責任の核心を突いている。
 ヒソヒソ声はピタリと止み、重い空気が少しの間室内全体に漂った。

 たっぷり1時間のあと、石倉が1人で戻って来た。
 営業部長は、カミナリを落とした後はしばらくタバコを吸いに外へ出るのが常だ。
 叱りつけた社員への気遣いなのか、それともおさまらない怒りを抑えるためなのかは本人にしか分からない。
 柔和だと思っていた石倉の固く険しい表情に、少し怖さを感じて目を逸らした。
 仕事に集中しようと頑張るが、気になって視界の隅でちょこちょこ彼の動きを確かめてしまう。
 (なんでこんなに気になるんだろ。私、石倉さんのこと好きなのかな)
 自分でそう思うくらい気になった。
 でも、石倉の顔を思い浮かべてもそこまでドキドキしない。
 しばらく経って気が付いた。
 自分は、誰かが怒られる姿が怖いのだ。自分が怒られているような気分になる。
 そして、笑顔しか知らない人が全く笑ってない。それが、八枝の心配の正体のようだった。

 とは言え、慰めの声をかけるほどには親しくない。
 帰りのスーパーで千葉産のミカンを見つけた時、だから自分にできるたった一つの事がそれだという気がして、買い求めた。

<千葉のミカンを買ってみました>
 翌日の帰り際、それだけ書いたふせんとミカンを石倉の机に置き、彼の帰社を待たずに帰った。
 なんとなく石倉の顔を見辛いような気がしたからだ。
 その翌日、給湯室にいる時に通りかかった石倉から食事に誘われて、断る理由もないので帰りに近くの店で待ち合わせることになった。

「ごめん、結構待たせちゃったな」
 今から店に向かうと電話が入ったのが、八枝が会社を出てから1時間後。それまで街をぶらついて時間を潰していた八枝に、会う早々石倉は頭を下げた。
「いつもはもっと遅いんじゃないですか?」
 八枝が返すと、まあねと軽く笑う。
 カジュアルな雰囲気のイタリアンの店に入ると、2人は取り敢えずビールを頼んだ。
「お酒飲める方?最近、ビールが嫌いな女の子多いけど」
「うち両親がビール好きで、大学の時から時々一緒に飲んでたんで。オクトーバーフェストとかも行ってましたし」
「へえ、いいねえ。仲良いんだ。
 嫌いな食べ物とかない?適当に頼んでいい?」
 メニューを見て少しまごついている八枝に気を使ったのか、アラカルトから3品を、続けてメインを石倉が選んで注文する。
 こんな風に男性にエスコートされたことがない八枝は、緊張がにじみ出て背筋がだんだん伸びて来た。
「いやいや、そんな硬くならないで。ミカンのお礼なんだからさ」
 石倉は届いたビールを、乾杯もそこそこに飲み干しておかわりを頼む。
「え、ミカンって、たった一個…」
「うん、まあ、励まされたからさ、あれで」
 カウンターに並んでいた大皿から取り分けられたアラカルトが、次々とテーブルに並んだ。
「さあ、食べて食べて。腹減ったろ」
 石倉が手早く小皿に取ってくれる。
 そつのない動きに、八枝は手が出せなかった。
(こういうの、女性がするもんじゃないのかな)という思いから、つい「すみません」と言葉が出た。
「何が?」
 石倉が顔を上げる。
「や、男性にこういうのさせて…」
 八枝の家庭では父親は頑として動かない。それは男性にはさせてはいけないものだと思っていたので、謝ってしまったのだ。
「今日は俺が誘ったし。営業で慣れてるから、こういうの」
 そうか、営業ってそんなこともするんだ。
 ただ営業しに回ってるだけじゃないんだ…。
(一緒に働いていても、全然わかってないな私)

「その…大丈夫だったんですか?昨日の」
 聞かれたくないかもしれないが、ミカンのお礼と言われては、他の話題を振るのもわざとらしい気がして、おずおずと八枝は聞いてみた。
「いやー。始末書だよ。今回はやらかした」
 大きなため息が漏れる。
 始末書、という重い響きに八枝は思わず口に入れたばかりの肉をろくに噛まずにゴクリと飲み込んでしまった。喉が痛む。
「気をつけてはいたんだけどね」
 強がっている様子が伝わって来た。営業部長にこってり絞られた後の、こわばった表情が戻って来る。
 なんと返して良いのか分からなくて、必死に言葉を探しているうちに、ふと先日の疑問が思い出されたので、そのまま口にしてみた。
「営業さんってすごく大変そうですけど…どうして、そんな頑張って働けるんですか?」
 きょとん、とした顔で石倉が八枝を見返した。
 一瞬沈黙し、すぐにハハハという大きな笑い声を上げた。
「そんな真面目じゃないよ、俺。そこまで頑張ってないって」
「でも、私だったらできないなって思うんです。そんな大変な仕事」
「いやー、皆が皆、一日中フル稼働で走り回ってるわけじゃないし、たまには息抜きもしてるよ」と笑いながら、でも、と少し真面目な顔になって言葉を続ける。「まあ、それしかできることがないからかな」

「大学だって普通に文系出て、特殊な技能があるわけじゃないし、人と話すのは苦手じゃないし。売り上げ上がった時は嬉しいしね。お客さんとの関係にもよるけど、信頼されるところまで関係ができた時は、もっと頑張ろうと思っちゃうもんでさ」
 八枝は、そうですかと答えたが、うまく理解できなかった。
 そんな気持ちを読み取ったのか、石倉が言う。
「ミカンみたいなもんなんじゃないの」
「え?」
「ミカンはミカンにしかなれないだろ」
「え、ええまあ」
「政治家になるとか、アーティストになるとか、大きな才能を持ってる人は、ミカンからマンゴーとか桃とかになれる人じゃないかなと思うんだよ」
「はあ」
 何が言いたいのかよく分からない。八枝は黙って聞くことにした。
「小さい時はどのミカンも同じに見えるんだけど、学校を選んだり才能を磨いたり、人とぶつかったりするうちに、高級なミカンと普通のミカン、傷だらけのミカンに振り分けられて行くみたいな。育った環境で味が、つまり中身の質が変わる」
 八枝の頭の中に、たくさんのミカンがゴロゴロと転がり始める。
「高級なミカンは育て方から違うだろ。塾に行ったり、良い先生についたりして、才能や学力を伸ばすレールが早くから敷かれてる」
「ああ、はい」
「今はどんな果物も、より甘く、大きく育つように常に品種改良されてるけど、俺たちもそれと同じでね。エリートコースを走れるトップの連中は子供の頃から色々なテコ入れをされてる。でも普通の家庭で普通に育って来た俺なんかは、マンゴーや桃になれるような条件を持たないで来たってこと」
 ああ、私もそうだ、と八枝は頷く。親子仲の良い家庭環境。成績は常に中の上くらいをキープしていたので、自分の能力や才能に大きな不足を感じることもなかった。平凡な人生だと自覚はしているけど、それはそれで良いと思っている。
 石倉が言いたいのはそう言うことじゃないかと合点が行ったのだ。
「今から努力できることもあるけど、それでもいきなり官僚なんかになれるわけじゃないし。俺がいるのはここで、これから生きて行くのもここってこと。だから、やれることをやる。それだけ」

 石倉の話は、八枝の思考を少し重くした。
 そんなの考えたことがない。
 自分は自分にしかなれないなんて、当たり前のことだけど、突きつけられると見たくない現実を無理に見させられた気がした。
 そうか。ここから数十年、私も、今いる世界から大きく飛躍する可能性がないまま、ずっと生きて行くんだ。
「ただね」
 押し黙っている八枝を見ていた石倉が、真面目な表情で八枝の目を覗き込む。
「腐らないように生きたいとは思うよね」

「ミカンが甘いか甘くないかは、ミカン自身の努力じゃないけど、俺らは人間だから。味のある人生を生きるのか、やる気なく目の前の仕事をこなして消極的に生きるのか、どちらかを選ぶことはできるじゃない」
「はい」
「できれば俺は、なるべく楽しく生きたいし、充実してない人生よりは、してる方が良いと思うんだよね」
「きつい思いをしても…?」
 八枝はまた、昨日の石倉を思い出した。
 石倉のせいじゃない、と言っていたのを聞いたからだ。
「自分が悪くないのに、嫌な思いをさせられたら、私はそうは考えられないかもしれません」
 八枝がそう言うと、石倉は厳しい顔になった。少しドキッとする。
「嫌なこととか、悪いことが起こったら、それは全部相手のせい?」
 え、と八枝が詰まる。
「そうじゃないんだよ。アクシデントが起こったら、自分にも、わずかでもそれを引き起こした理由がある。どんなに理不尽なことでも、そこをちゃんと考えておかないと、きっと嫌なことが繰り返し起こるだけになるよ」
 例えば、と石倉がテーブルの皿を右と左に寄せて道を作る。
「岡さんはいつも、この道をまっすぐ帰ってます」
 仮定の話だ。
「たまたま今日は、ここから右に曲がりました。するとここで車にはねられてしまいます。悪いのは誰でしょう?」
 八枝は小首を傾げなから「車?」と疑問符で答えた。
「そうだね。悪いのは車だ。ただ、なぜ君はここで、この日に限ってこの角を曲がろうと思ったのかな」

「え、ただの気分で曲がっても、自分も悪くなるんですか?」
「いや、そうじゃない。悪くはないんだ」
 石倉が皿を戻しながら、手が止まっている八枝に食事を進めた。
 慌てて口にしたアヒージョは、だいぶぬるくなっている。
「いつもと違う道を選んだなら、もっと警戒して進むべきなんだよ。他の道が安全だからと言って、そこも安全だと慢心していなかったかを振り返る必要があるって言いたいんだ。
 何気ない自分の行動でも、そこに至るプロセスを追求して、なぜそこでアクシデントにあったのか、そのリスクが高まった原因はどこにあるのかを探って、同じ間違いを繰り返さないように成長して行かないとダメってこと。
 悪いことを全部人のせいにしていると、考える力が落ちて行くからね」
 ああ、とアヒージョを飲み込む。
「要は、何をするにしても脳みそ使って考えて行動したいってことかな。それで人生の充実度って結構変わると思うから」
 気がつくと、石倉はもう3杯目のワインを飲み干そうとしている。
「お酒、強いんですね」
 八枝が言うと「岡さんもでしょ」と笑われた。ええまあ、と軽く流して、石倉の話に集中しすぎて酔う暇がないのだとは言わなかった。

「今日はありがとう」
 店を出て、冷たい空気を防ごうとマフラーを巻き直している八枝に石倉が礼を言う。
 自分が言うべきなのに逆に感謝されて八枝は焦り、繰り返し礼を伝えた。
「美味しかったです。ご馳走様でした!」
「いや、俺の方がなんか元気出たわ。付き合ってくれてありがとう」
 そのまま地下鉄の駅まで八枝を送り、石倉は自転車置き場へ歩いて行った。
 石倉が自転車通勤をしていることも、今初めて知った。

 頭を使って生きる。
 これまでの八枝の人生になかったワードが、強く残った。
 今まで、人生についてそこまで考えたことがなかったから。
 成績に見合った高校を、大学を選んで進んできた。
 大学はむしろ、遊びたかったからワンランク落としたくらいだった。
 就職は最初に決まった会社に飛びついて入社して、無事に仕事が決まったことで両親も喜んでくれて。
 いずれは好きな人と結婚して退職して、子育てして年をとっていくんだと、誰もが思い描くような将来を想像するだけだった。
 今の仕事に何の思い入れもない自分の姿を、今夜は直視させられた。

 帰宅して、冷えた体をお風呂で温めてコタツに潜ると、昨日買ったばかりのミカンが3つ、朝出かけた時のままお皿の上に並んでいた。
<もっと甘かったらいいのに>
 そう言った自分の言葉を思い出した。
 それは、私の勝手な希望だ。
 言ってもどうにもならないことを言っただけだった。
 買ってきたのはお母さんで、私は座って食べてただけなのに文句を言ったんだ。
 初めてそんな考えが浮かんだ。

 それに、コタツの上にミカンがあるのだって、別に当たり前じゃない。
(ミカンを剥くのが面倒だと思う人は、もしかしたら最初から買わないかもしれないのよね…)

<ここでしか生きられない自分>と石倉は言った。
 ということは、ここにとって必要な存在でなければならないということ。
 お前なんかいらないよって言われないように。

 コタツが今の会社だとして、私はその上にいつも乗せられているミカンになれるだろうか。
 少なくとも、今はまだそんな存在じゃない。
 いつもどこかで仕事をメンドクサイと思って、与えられたこと以上のことも、それ以下のこともしていない今の自分は、何も頑張ってはいない気がした。
 でも、この先、皮を剥くのが簡単なバナナに買い換えられたりしないように、もう少し頑張るべきなのかもしれない。

 いや、もしかしたら、コタツを選べるミカンになることだってできるのかも、と、ひとつの可能性を思いつく。
 スキルアップして、力がついたら。
 何かやりたいことを見つけて、それに向けて努力したら。
 他の会社とか職種を、選べるようになるかもしれないよね?

 いつもならゲームをしたり漫画を読んだりするはずの夜の時間を、八枝は今夜は考えることに使った。
 そしてそれは、思ったより心地よい時間だった。
 ただ面白いとか楽しいというのとは違う充実感が、八枝の頭と心に広がっていた。
(良い先輩に出会えたな)
 石倉にお礼のメールを送ろうとして、アドレスもラインも聞かずに別れたことに今更気付く。
 明日、教えてもらおう。そしてまた話が聞きたい。
 もう一歩、人生のコマを前に進めるために。
 自分が、もう少し大人になるために。


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