或る、蜘蛛の子の母。
みつるは、けたたましく掃除機をかけていた。
初夏のキラキラと眩しい日差しの中で。
南西の方角を向いたみつるの部屋は、この時期、昼前くらいから汗ばむほどの日差しが差し込んでくる。
その前に、さっと部屋を片付けてしまおうと思って、一人暮らしを始めた頃に買って10年の付き合いになるオンボロ掃除機を引っ張り出したのだ。
古いし、雑に扱ってきたから、とにかく音がガチャガチャとうるさい。
寝室の窓とカーテンを全開にして、掃除機の先が時々タンスにゴツンとぶつかるのも気にせず、ただただ勢いに乗って手を動かすことに集中する。
と、視界の端で、黒い点がぴゅっと動いた。
(ハエトリグモだ)
虫は苦手だが、ハエトリグモは、動きが早くてちょっと可愛い。
(殺さないでおこう)
みつるは蜘蛛が逃げられるように、スイッチは切らないままでいたが、掃除機のヘッドを手元で何度か往復させながら、蜘蛛が逃げるのを待っていた。ほら、早くタンスの方に行って、掃除が終わるまで隠れておいで。そんな気持ちで。
でも、なぜか蜘蛛はそこから先へ進まない。
早く行かないと吸われるぞ、と、冗談で10cmほど掃除機を進めたとき。
掃除機のすぐ先で、蜘蛛よりももっともっと小さな何かが、キャッとひっくり返った。
糸くずに見えて吸い込もうと思ったが、蜘蛛が、その小さな何かの方を振り向いて動こうとしないのに気づいて、やっと掃除機のスイッチをオフにする。
しゃがんで顔を近づけてみると、それは、とてもとても、とても細い足と体を持つ、蜘蛛の子どもだった。
生まれたばかりなんだろう。体が半透明だ。
びっくりさせちゃったんだな。そう思ったみつるは、指で床を叩く。
トントン、トントン。
ほら起きろ、掃除機は止めたよ。
動かない。
トトン、トン。
………………動かない。
蜘蛛の子は、死んでいた。
もしかしたら、掃除機が怖すぎて、そのショックで死んだんだろうか。
みつるが床を叩いているのを、先の蜘蛛がじっと見ている。
(母蜘蛛だ)
そう直感した。
背筋に、怖気が小さく ゾッ と走った。
母蜘蛛の目の前で子蜘蛛を殺してしまったのかもしれない。
そう思って。
みつると母蜘蛛は、しばらくの間、黙って子蜘蛛を見つめていた。
母蜘蛛はいつまでも微動だにせず、立ち去ろうともしない。どうすれば良いのか分からないまま、そっと母蜘蛛に話しかけてみた。
「ごめんね。謝りきれないけど、ごめんね」
母蜘蛛が少し、みつるの方へ体を向ける。
蜘蛛には自分が心底憎い敵に見えているだろう。鬼か、悪魔か。
どうすれば良いか分からない。けれど、ゴミ箱に捨てたりするのは違う気がした。してはいけない気がした。
それでしばらく考えて、母蜘蛛にこう話しかけた。
「下の地面に送っていいかな」
みつるの家はマンションの3階で、まっすぐ下には、樹木が植えられた広めの共有スペースが設けられている。
人が滅多に踏み込まないので、普段から野良猫やいろいろな虫が住み着いている場所だ。
そこに落とせば、自然と土に還ると思うんだ。
それで許してはくれないだろうか。
母蜘蛛は、ピク、ピクと体の向きを子蜘蛛とみつるへ交互に向けると、1、2歩、後ろへ下がった。
まるで、母蜘蛛がみつるの提案をなんとか飲み込んでくれたような動きに見える。
リビングにあったコピー用紙を持ってきて、子蜘蛛が傷つかないようにそっと、そっとすくい上げる。そして、手のひらに乗せ替えた。
母蜘蛛が、手の動きをじっと見つめている。
コンクリートのベランダに出てみると、照り返しでジリジリと焼けるような暑さだ。
(このまま落とすと、下の家のベランダに入っちゃいそうだな)
迷ってじっとしていると、ふ、と軽い風が吹いた。
とっさに手すりから身を乗り出して手のひらを風に差し出すと、子蜘蛛の体がふわりと浮いて、あっという間に見えなくなった。
風は微風で、少しだけみつるの汗まみれの額を撫でてすぐ止まった。
まるで、子蜘蛛を迎えに来たように。
地面を見下ろし、心から子蜘蛛に詫びて部屋に入ると、母蜘蛛の姿はもう、どこにもなかった。
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