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辛口ジンジャーエール

 剛平と舞衣は波長が合うのか、もう5年ほどバランスの良い友人関係を保っている。
 男女の関係を匂わせたことがなく、そのおかげで喧嘩ひとつしたこともない。けれど最近剛平には、そのバランスの良さが物足りないように感じられ始めていた。
 ここまで趣味もノリも合う女性は舞衣の他にいないだろうと思えたし、舞衣も俺と一緒にいる時はこんなに楽しそうなんだから、少なくとも好意がないはずはない。
 そう考え始めると、剛平に向ける彼女の笑顔は、他の男に向けられるものと比べて特別な親しみがこめられているようにも感じられてくる。
 
 それで、二人で散々酔っ払った深夜に一度だけ、ビルの影に隠れてキスをしたことがあった。
 少し前を歩いていた舞衣の腕を引いたのは剛平だ。終電もとっくに終わって人の気配が去った繁華街で、古ぼけた雑居ビルの隙間を抜ける時とっさに彼女の手を引っ張った。
 足元が少しよろけた体を抱きとめて口づける。
 花冷えする夜だ。舞衣の指先がちょっと冷たかった。その薄い肩を壁に押し付ける時、長い髪が剛平の指に絡みつく。
 衝動的だったが、長くて熱くて、深いキスだった。
 酔っ払っていたせいだ。
 止められなかった。
 彼女は抵抗しなかった。けど、唇が離れた時に、笑った。

 舞衣は剛平の腕を引っ張ってふたたび歩き始め、路地の先にあるバーの扉を押し開ける。
 そのまま朝まで飲んで帰って、二人の関係は変わらなかった。
 でも男ってのはバカなもんで、駒をひとつ進められたら、次またひとつ進められると思ってしまう。その日から、いつかは彼女と関係を深められると考えて、期待しながら会うようになった。

「たいていの男は女の上に乗った瞬間に、対等な関係を終わらせるでしょ?」
 キスをした日からずいぶん時間が経ち、夏が終わりかけた頃、舞衣をカフェに誘い出してとうとう「恋人になりたい」と告げてしまった。
 しかし舞衣から返ってきたのは思いがけない硬い反応で、剛平を大いに戸惑わせた。

 彼女が何を言おうとしてるか分からずに、
「それは終わりじゃなくて始まりだろ?」と言ってみたが、多分そういう意味じゃない。
「セックスの対位と精神的な上下関係を混ぜちゃう男が多いって話。女もそうかもしれないけど」
 あなたと長く友達でいられたのは、上でも下でもなかったからよ。
 と、目の端に笑みを残しながら舞衣がストローで辛口のジンジャーエールを飲む。
 すぼめた唇が魅惑的だ。

「上か下かとか」
 反論しようとして乾いた喉が引っ掛かったので、そのグラスを勝手に取り上げて一口飲む。
「考えたことないよ。俺は」
 そんな風に女性を下に見る気なんて全くない、と剛平は口を尖らせた。
 男女の間に上下関係がないとまでは言い切れないが、今この場で言おうとしているのは、舞衣を愛して大事にしたい、それだけなんだと説明しようと頑張ってみたが、うまく噛み合わせられずにいた。

「あなたのことを言ったわけじゃないの。多くの男女は、付き合っちゃうと関係が変わってしまうって話」
 そう言われると切り返しづらくなる。自分だって好きだと思って付き合った何人もの相手と喧嘩したりすれ違ったりして別れてきたのだから、彼女が言わんとすることも理解できないわけじゃない。
 舞衣はジンジャーを取り返し、カラカラとちょっとうるさく氷を回した。強めの炭酸がブワッと泡立ち、パチパチバチバチと音を立てて消えて行く。

「ねえ」
 しばらくの沈黙ののちに舞衣が口を開いた。
「二択です。
 一発屋でも名前を残せる人生と、平凡でトラブルのない人生なら、どちらを選ぶ?」
 唐突過ぎて、暗喩だろうと思いながらも「平凡な人生は嫌だね、俺は」と答える。
「よね。そう言うと思った」
「舞衣だってそうだろ。いつも言ってるじゃないか。刺激のある人生を生きたいって」
 だからここで俺の求めを断るのは舞衣らしくない、そんな気持ちもつい、込めてしまった。
 剛平が言わんとすることを察したのだろう。舞衣は剛平の手を取って立ち上がり、彼の目を見ずに一言「行こっか」と呟いた。
 
 舞衣は剛平の手を引きしばらく歩いて、一番最初に見つけた古ぼけたホテルに躊躇せずに入った。
 安ホテルのあまりの狭さ。
 薄暗い明かりに湿気た匂いが染み付いて、夜の中に密閉された箱のようだ。今どき赤いランプなんか点いていて昭和の匂いが漂っている。

 だけど素晴らしい夜だった。
 部屋に入るなり剛平は舞衣に強いキスをした。舞衣もまた受け入れた。柔らかく波打つ肌が、剛平の手で剥き出しにされて行く。
 さっきまで抱き合うことに渋っていた様子だった舞衣が、嘘のように深い愛を見せてくれることに有頂天にもなった。
 「上でも下でもなく」、彼女自身がそう言っていた通り、ただ抱かれるだけの女じゃなかった。剛平が囁く愛に、名前を呼び返し、囁きを返す。

 何もかもを受け入れられる心地良さに剛平は溺れた。性格も体も合うなんて最高だ。そう呟いて、舞衣が笑うのを見下ろしていた。
 華奢で弱くて小さくて守らなければならないと思っていた女性像が、この数時間でひっくり返されてしまいそうだ。
 何度か挑んで、受け入れられて疲れ果てて、シャワーを浴びに立ち上がることもできないくらいの睡魔の中で、彼女を抱き寄せながらもう一度、愛を呟いた。
 こんなに気持ち良く眠りに落ちるのはいつぶりだろう……。

 けたたましい音で目が覚めた。
 あまりに深く眠ってしまって、鳴り響いているのが電話の音だと判別できるまで少し時間を要した。遮光カーテンを閉め忘れたはめ殺しの窓が眩しい。
 電話はフロントからだった。時計を見るとチェックアウトの時間を10分過ぎている。
 慌てて謝り、延長を頼んで重い体を起こしてから気がついた。
 彼女がいない。
 シャワーかトイレか?と耳をすますが、部屋は静まり返っている。

「舞衣」
 呼んでみたが返事がない。
 昨夜脱ぎ捨てたはずの彼女の服もバッグもなく、自分の服だけが無惨な姿で散らばっている。
(先に帰るなら声くらい掛けてくれればいいのに)
 熱い情事を思い出すと、こんな素っ気ない朝は理不尽に感じられた。彼女の笑顔で目を覚ます以外のシチュエーションは想像もしていなかったから。

 シャワールームへ直行して頭から湯を浴びると、けだるげな疲れが昨夜の激しさを思い出させてくれる。
 格別な気分だった。
 舞衣は想像以上の女だったし、あの体がこれからは自分のものなんだと思うだけで気分が高揚する。
 幸せを手に入れた、剛平はそう信じて鼻歌を歌いながらホテルを後にした。

 しかしその直後から、彼女は電話に出なくなった。メールの返信もない。
 2日後には、電話の呼び出し音が突然〈この電話番号は現在使われておりません〉というアナウンスに切り替わった。
 LINEを開くと、アイコンが消えている。
(どういう事だ?)
 いつも二人だけで遊んでいたから、共通の友人も少ない。思いつく場所へ行ってみたが、広い東京で偶然知り合いがすれ違うなんてドラマでもない限り有り得ない。
 二人でよく飲みに行っていたバーにも顔を出したが、個人的な質問ができるほど店員と親しくしていたわけでもないので、一杯飲んですぐに出た。
 まるで意味が分からなかった。
(舞衣だって積極的に楽しんでいたんだから、受け入れてくれたんだろ。なんで手のひらを返すような態度を取られなきゃならないんだ)
(俺が何か悪かったのか、本当は感じたフリをしていただけだったとか…)
 考えは悪い方へ悪い方へと向いて行く。

 とうとう1週間を過ぎ、舞衣ともう一度連絡が取れる望みが消えつつあるのを、さすがに認めざるを得なくなった。壁にかけたままにしていたあの日のジャケットから漂う舞衣の残り香が辛くなる。
(もういい、消してやる)
 洗濯機に放り込もうと取り上げて、胸ポケットに何か入っているのに気がついた。
 カフェのレシートだ。
 〈ジンジャーエール〉の文字にすら胸が痛む。
 唇をすぼめてストローをくわえていた舞衣の姿が蘇った。

「くそっ」
 思わずジャケットを丸めると、胸元でまだクシャッとした手触りが感じられた。
 ポケットを探ってみると、折り畳まれたメモ用紙が入っている。これには見覚えがない。
 開くと、さらりと流れるように書かれた舞の字があった。

『私たちらしい、記憶に残る生き方を』

 しばらく意味が掴めずにいたが、ホテルへ向かう前の会話を思い出して思わず「ああ」と声が漏れる。
 あの二択。あれはそういう意味か。
 舞衣の人生に、一発のインパクトを残す方を選んじまったということか……。

 剛平はあの質問を、「俺たちらしい刺激的な人生を選ぶべきだ」と読み解いた。だからああ答えた。
 けれど、違ったのだ。「一発屋でも強烈な思い出になれる関係と、良き友人として波風を立てない関係と、どちらを選ぶか」が、質問の真意だったのだ。きっと。

「分かんねえよそんなの!」
 思わず洗濯機を蹴り飛ばし、小指をしたたか打ち付けてしゃがみ込む。
「ってえ……」
 痛みのせいだと心の中で言い訳しながら、我慢できずに涙が落ちた。洗濯機の前なんかで背中を丸めている自分が情けない。
 あのとき違う答えを選んでいたら、今夜だってまだ二人で楽しく遊んでいられたのか。でもそれを続けるには、剛平の思いは育ち過ぎていた。

 本当はもっとちゃんと、考えておかないといけなかった。剛平が舞衣をどんな風に大切にしたかったのかを。
 いつかは形を変えるかもしれなくても、恋人としていくつかの季節を楽しみたかったのか、もしかしたら一生に一人も出会えないかもしれない心を許せる友人としての関係を、大切に育て続けて行くべきだったのか。

 人生はいつも二択だ。恋も友情も、いつだって右と左に分かれて行く。
「行こっか」と剛平の目を見ずに呟いた彼女もまた、あの瞬間に選んでいた。
 その手を握り返すチャンスも、引き止めるチャンスも二度と来ないのに、抱き合った熱が心に残っていて、うずく。
 5年もの時間の中で笑い合ったたくさんの日々があっけなく弾けて消えて行くのを、今はただ、うずくまって見つめることしかできなかった。

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