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白球のむこうへ

最後の夏が終わった。
将吾の学校は、甲子園どころか
県大会で二勝を上げるのが精一杯だった。
野球が大好きで、野球にもっと集中したかったけど
推薦で有名校に入れる実力もなく
家から近い、手頃な高校に進学して
もう、三年が経とうとしている。

「将吾まだ野球しよるん」
中学の同級生から聞かれる。
「ずっと続けとると?偉いねえ」
何が偉いか知らんが、親戚のおばちゃんから言われる。
地区大会で知り合った有名校の野球部ナインが
センバツでテレビにちらりと映った時は
眩しくて、羨ましくて、気持ちがモヤモヤしてモヤモヤしすぎて
つい、チャンネルを変えてしまった。
「なんで変えるとね。西筑の叶君が出とるやないね」
無神経な母が、チャンネルを戻した。

何も誇れるものがない。
就職組だから受験勉強もしなくて良い。
でも、何か引っかかる。
胸のモヤモヤは叶君を見かけてからずっと止まらないでいた。
なのに、もう、野球部へ行く必要すらない。

(どうしたら良いとや?)

ラストを残しておいたゲームをしてみた。
面白かったが、スッキリはしなかった。
アイドルのグラビアを夜中にこっそり見て
スッキリすることをしてみたけど
スッキリの後にまたモヤモヤが戻ってきた。

「もう、わからん!」
だんだん腹が立って、真夜中に自転車で海へ向かった。
両親も寝室へ入っていて、将吾が出たことに気付かないようだった。

海は、将吾の家から自転車で20分ほど走った先にある。
程よいアップダウンがあるので、よくトレーニングで走った道だ。
盛りこぎで、ノンストップで走った。
思ったより早く足がきつくなる。
たった数日、練習しないでいただけなのに
なんとなく、体力が落ちているような気がした。
それがまたカチンと来て、絶対に止まらないぞと決め
苦しさを押して走った。
田舎の真夜中なんて、車も人も通らない。
20分の道のりを、ほぼ半分の時間で到着できた。

全身汗まみれ、呼吸もゼーゼーと苦しくて
砂浜にドット倒れ込む。
砂が汗にくっついて、荒い息とともに口にも入って来たが
それを払うのもきつかった。
砂の冷たさに身を沈めて、しばらく目を閉じていた。

呼吸は、すぐに落ち着いて来た。
心肺能力の高さと、日頃のトレーニングのおかげだ。
耳に、潮騒が届き始める。
ざ、ざざ。ざざざ。ざ。ざ…
何分そうやっていたのか分からないが
体の熱が引いて呼吸が落ち着いてくると
空の星も、見え始めた。

小さな星が、空にびっしりと輝いている。
小さな浜のまわりには大して街灯もなく
家や学校で見上げた夜空よりも
もっと多くの星が見えた。

(俺は、俺の光は、どうやろうか)
ふと考えた。
(光っとらんね、全然)
好きな野球でも実力が伸ばせず
学校の勉強も好かん。
性格が特に良いわけでもないし
他にできることもない。
(なんか、シケとーのお)
(この先ずーっと、こんな人生なんやろうか)

うわあー!と叫びたかったが
そこは現代っ子。海に向かって叫ぶなんて超恥ずかしくてできない。
またモヤモヤが湧いて来そうで
思わず立ち上がって砂浜を走り始めた。
<おらあ!砂浜ダッシュ30本始めい!>
監督の声が脳裏に蘇る。
あの時は、鬼やコイツ、と思ったが、今はその声が将吾を導いた。
サンダルを放り出し、走る。
1本、2本。また息が上がる。
4本、5本。砂に足を取られて転げる。
立ち上がって、走る。9本、10本。

(もうやめたい)
そう思いながら、やめられなかった。
途中から数を数えるのも忘れて走った。

とうとう、これ以上は無理というところでまた倒れ込み
今度こそきつくて立てなくなった。
でも、全力を出し切った心地よさが
モヤモヤを押しのけて、身体中に広がるのをやっと感じられた。

(叶君は、これよりきつい練習をしよったんやろうか。
 やけん、西筑に入れて、センバツまで出れたんやろうか。
 俺は俺の学校の練習しか知らん。
 それでもあげんきつかったのに)

将吾は、高校に入ってからの野球漬けの毎日を思い出した。
野球はセンスやねと、なんも知らん奴から笑われたことを思い出す。
その言葉に拗ねて、どうせ俺はセンスのない凡人やん、と笑い返したことを
今さら、腹立たしくも思った。

でももう、終わった。
誰が何を言っても、俺の野球人生は18才で終わる。
これが、俺の精一杯や。

初めて、涙が出た。
最後の練習の日も泣かなかったのに。
泣くほど寂しいとは思わなかったのに。

(淋しくて泣くとか、しけとう。
 今さら泣いてもなんもならんやないか)
そう思うのに涙が止まらなかった。
海に駆け込んで顔をじゃぶじゃぶ洗いながら泣いた。

将吾自身、自分で自分の気持ちが整理できずにいたが
それは淋しくて出た涙じゃなかった。
野球が好きで、好きで、
好きでたまらないのに最後までどうにもならなかった
その悔しさで流れた涙だった。

海水か涙か、分からなくなるまで泣いて
顔をこすりすぎて海水がしみて、ヒリヒリし始めてようやく、大きなため息が出た。
それが合図のように、何かがおさまった。
泣いても笑っても結果は変わらないのだ。
その事実に、やっと腹の底で合点が行った。

体も、頭の中も疲れて、ストンと力が抜けた。
その場に座って、足も尻も濡れるまま
波打ち際で、夜空を見ていた。

呼吸と心が静まると、潮騒に混ざって
夜に飛ぶ海鳥の声や小さな虫たちの声が聞こえ始めた。
夜の海なんか何もないと思っていたが
色々な音が、だんだんと賑やかに立ち上がってくる。
耳が静寂に慣れ、目が暗闇に慣れて
普段は意識していない生き物たちの気配を感じられるようになったらしい。
よく見ると、ずっと向こうで夜釣りをしている人もいる。

自分が知らないだけで、いろんなものが動いてる。
見えないだけで、自分のまわりではいろんなものが生きてるんだな。
冷静にそう思えた。
野球しか見ずに来た自分が
見ないまま来たものの多さを、体で感じた。

腹が鳴った。

(帰ろう)

砂でジャリジャリの体で自転車にまたがると
帰りはゆっくりと走った。
思い出したように通りかかる車のライトが、ものすごく眩しかった。

帰り着くと、リビングの明かりが付いている。
そっと入ると、父親が新聞を読んでいた。
(こんな夜中に?)
家を抜け出したことを怒られるのかと思ったが
振り向いた父親は、将吾の顔を見て「ん?」と声を出した。
(「ん」?どういう意味の「ん」?)
次の言葉を待ってみたが、父親は何も言わずに新聞をたたみ
将吾の肩をポンと叩いて寝室へ入って行った。
肩を叩かれた時に砂がパラパラと落ち
将吾は慌ててシャワーを浴びにバスルームへ駆け込んだ。

その夜は、久しぶりにぐっすり眠れた。
胸のモヤモヤに邪魔されることなく。


寝室の暗がりでそっと、母親が父親に尋ねる。
「将吾、大丈夫やった?」
「ああ」
父親は短く答えて、深く息を吐いた。
「心配やろうが、放っとけ。
 あれも大人にならないかん時期がきたんや。自分で乗り越えな」
母親は心配に顔を歪ませたが
夫を、息子を信頼することに決め、頷くかわりに静かに瞼を閉じた。



*しけとう……つまらない、面白くない、ダメなやつ、などという意味。
財布の中身が少ない時にも使われる。「シケた財布やのう」など。

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